星の数がわからない。
冷たく固い地面に倒れ込んだ佐助は、意識のすべてを総動員する勢いで、こじあけるように目蓋を押し上げ、視線の先、山中の木々の隙間から覗く夜空に目を向けていた。
そこに無数に散りばめられている筈の星々は、かすみ、にじみ、ぶれて、いくら双眸を細めても一向に定まらず、その光の形を見極めることができない。
忍の目であれば、当然見えていなければならないそれらを数えることが出来ないのは、いま佐助が正常な状態にないからだ。
――血を流し過ぎたのか、それとも毒でも回ったか。
それすら判断できないというのが既に異常だった。
今回の任務は、歳若く実地経験値の低いくのいちをひとり連れての偵察だった。同行者の技量を考慮して、比較的簡単であろうものを選んで臨んだのだが、何事にも『絶対』はない。
帰路の途中、ようやく武田領へさしかかったあたりで、厄介なことに他軍の手練(てだれ)五人と遭遇し、交戦する羽目になった。
実のところ、佐助ひとりであれば、どうということはなかったのだ。が、もの馴れぬ連れを気に掛けながらの行動にはどうしても制約がある。思うままに動けず、気付けば佐助は深手を負わされていた。
――仕方ないじゃん。
佐助は誰へともなく言い訳をする。
だってさ、あの子、真田の旦那のこと慕ってわざわざウチの隊に移って来たんだぜ。
たとえ足手纏いになったとしても、見殺しにすることなど出来はしない。万一死なせでもしたら、
――旦那が悲しむ⋯⋯。
佐助が死にかけるような怪我をするのは、何もこれが初めてという訳ではない。優秀な忍だと自負しているけれど、無理だってするし、何より万能でないこと、限界があることを知っている。
だから、いつだって死は覚悟しているのだ。むろん、今ここでくたばる気は毛頭ないが、それでもこの状態がながく続けば己のこの身に朝が訪れないことはわかっていた。
いまは、先に逃がしたくのいちが無事に上田に辿りつき、一刻も早く救援を手配してくれることを信じて待つしかない。
佐助は、ふう、と、ひとつ息を吐いて目を閉じた。
――真田の旦那は大丈夫かねえ。
こんなふうに生と死の境で想うのは、いつだって主・幸村のことだ。
自分がいなくなっても、ひとりでしっかりやって行けるのだろうかと、あれやこれや心配ばかりが募ってしまう。そうして、だからこそ今こんなところで死ぬ訳にはいかないと、気力を奮い立たせるのにも役立つその行為は、佐助にとってほとんど儀式のようなものだ。
過日、好敵手と巡り会ったことをきっかけに、最近の幸村はこれまでにない表情を見せるようになった。いつか、そう遠くはない未来、親離れするのではないか、そんな予感をいだかせるくらいには。
そうしたら、
――俺様もお役御免ってことになるのかな。
命あるかぎり幸村配下の忍隊隊長として、彼の人のそばに仕えることは変わらないだろうが、それでも。
それは嬉しいような寂しいような、少々複雑な想像だった。
だがそうなったとき、これまで幸村ひとりにすべて傾けて来たヒトとしての情愛を、欠片であれ、ほかの何かに向けることが、果たして己にあるのだろうか、出来るのだろうか。
と、そこまで思いを巡らせたところで、前ぶれなく脳裏に浮かんだひとりの男の顔に、
――!?
ぎょっとして佐助は目を見開いていた。
――ちょ、なに今の!
それは、主・幸村が好敵手と見留めた奥州の覇者の、その傍らに在った、心底嫌そうに眉根を寄せて自分を睨み据えていた、片頬に目立つ傷をもつ、強面の。
「痛ってェ⋯⋯っ」
狼狽のあまり飛び起きかけて、佐助は傷の痛みに呻く羽目になる。
――な、なんでここで右目の旦那⋯⋯!?
よもや、こんな場面であの男の顔が思い浮かぶとは。
あの男を相手に佐助が何をした訳でもないのに、彼に忍は苦手だと吐き捨てるように言われたことを思い出す。もっとも、今更そんなことが潜在意識のどこかに引っ掛かっていたのだとは考え難いのだが⋯⋯。
――なんなのよ、一体。
生殺の瀬戸際で幸村以外の何かに気を取られるなど、こんなことは初めてだ。
佐助は肺をからにするような大きな溜め息をついた。
これでは気になっておちおち死ねやしない。
――まあ死ぬ気もないんだけどさあ。
いつもの軽口の調子で胸の裡に呟いたところで、佐助は思考を停止しあたりの気配に耳を澄ませた。
遠くから、確かに響いて聞こえ来るあの足音は。
慣れ親しんだその気配を感じとって、知らず佐助は笑んでいた。
主自らお出ましとは。
――あとで説教してやんないと⋯⋯。
そこまで思ったところで、急速にせばまって行く視野に気が付いた。
だが、もう意識を手放しても大丈夫だ。安心して命を預けることのできる存在が、すぐそこまで近付いて来ている。
――この怪我が治ったら⋯⋯。
奥州行きの任務を願い出ることにしよう。独眼竜の様子を見に行くと言えば、きっと幸村は一も二もなく許可してくれる筈だ。そのついでに、あの御仁を訪ねても、
――いいよ、な⋯⋯?
随分と前からおぼつかなくなっていた佐助の視界に、そこで静かに紗が下りた。
了 2010.10.31