・カゼノヒノシノビ



 与えられた任務を終えた佐助が、わざわざ回り道をしてまで奥州は伊達軍の軍師・片倉小十郎の屋敷に忍び参るのは、もはや珍しいことではなくなりつつある。だが、その夜、小十郎の寝所に現れた彼はいつもと少し様子が違っていた。
「こんばんは」
 天井裏から羽目板を外し、部屋の中へと逆さまに顔を覗かせた忍は、普段から身につけている頬宛だけでなく、喉から鼻先までを黒い布で覆った見慣れない様相をしていたのだ。忍らしいといえば忍らしい格好であるのだが、佐助らしくはない。おかげで聞こえる声が不明瞭だ。
 既に延べられた寝具のかたわらに座し、燭台のあかりをたよりに兵法書を読んでいた小十郎は、その姿の違いにこころの裡で片眉を上げていた。
「降りて来い」
 トン、と仄かに音をたてて畳の上に降り立ったその瞬間、
「!?」
 伸びて来た小十郎の腕が、強引に佐助の口元からその布を引き下げた。
 途端、佐助の喉がふるえ、耳障りな音を撒き散らす。
 とっさに手のひらで覆った口から、なおも続く咳音。
「⋯⋯風邪でもひいたか」
 眉間にしわを寄せる小十郎の視線から目をそらし、
「バレちまった⋯⋯」
「あたりめえだ、この馬鹿!」
 鼻声でぼやき、ぐすりと洟をすすり上げる佐助の頭に、気付けば小十郎は渾身の鉄拳を見舞っていた。そもそも、それを避けられないなどということ自体、敏捷な忍に於いてはあってはならぬことなのに、佐助はもんどりうって倒れ込んでいる。
 佐助が天井から降りて来た際、わずかながら物音をたてたことで既に異変を悟っていたのだが、よもや風邪とは思わなかった。佐助があらかじめ口元を布で覆っていたのは、声色の変化を隠すためだったのだろう。
 よく見れば、身を起こした佐助の、頬宛の陰に隠れ気味の目がひどく潤んでいるのもわかる。
 ――熱まで出してやがんのか。
 ちっ、と舌打ちして、小十郎はますます仏頂面になった。
「そんなふらついてる身体で任務になんざ就いてんじゃねえよ。しくじったらどうする気だ」
 潜んだ先で咳き込みなどしようものなら一巻の終わりではないか。
「だぁいじょぶ、俺様優秀な忍だもん」
「本当に優秀だってんなら、てめえの体調くらい万全にしておきやがれ」
 おおかた幸村の世話を優先して、己への対応が手遅れになったのだろうと想像はつくのだが、命の遣り取りの前には言い訳など通用しない。殺るか殺られるか、それだけだ。
 戦の最中(さなか)でなくとも常に命の危険に晒されている、そんな刹那に身を置く忍であるくせに、発熱で集中力を欠いた上に鼻も効かぬ、挙げ句いつ咳き込むかもわからない、そんな体調で、万が一にも命を落とすようなことがあったらと、想像するだけで小十郎の肝は冷える。
「けどあんたに会いたかったんだよ⋯⋯」
 くぐもった声で小さくそう言うと、佐助は屹度きびしく眦を上げ、
「一生会えなくなるって言われたってさ、今この瞬間に会ってたいって――そう思って悪いかよ!」
 押し殺した声音ながら、語気は荒い。小十郎を睨み据える双眸が、本能を剥き出しに、燭台の炎を反射してぎらぎら光っている。
 それを小十郎は真っ向から受け止め、跳ね返す。
「あのとき会いに行ってればって、後悔しながら逝くのはヤなんだよ」
「そういうことを口にするな!」
 死ぬなどと、縁起でもないことを言の葉に乗せるな。
 いつだって、これが最後の逢瀬と覚悟しているのは小十郎とて同じ。
 危険を冒してまでこうして忍んで来ることを、喜んでいいのか叱ってやればいいのか、判らないくらいには小十郎も参っているのだ、この忍に。
「ったく」
 小十郎はぐしゃりと己の頭髪を掻き乱し、
 ――俺も大概甘めェよな⋯⋯。
 ふう、とひとつ大きく息をついて、その場の緊迫した空気を断ち切ると、対峙の姿勢を解いた穏やかな表情を佐助に向けた。
「てめえ、一刻を争って戻らなきゃマズイってわけじゃねえんだろ?」
 もしそうであるなら、いくら佐助といえどもここに立ち寄りはしない筈だ。そういう点で、任務に対する誇りと己の恋情とを同じ土俵に上げて秤に掛ける、そんな愚かな真似をする男でないことは小十郎にもよくわかっている。
「半刻でいい、休んでから行け」
 その言葉に、張り詰めていたものが切れたのだろう、ふらりと傾いだ佐助の身体は、そのままドッと小十郎の腕の中に倒れ込んだ。






「おい、忍」
 額の上に置かれた冷たい何かが取り除かれる。
「⋯⋯?」
 己の置かれた状況が把握できず、佐助はぼうっとした表情で、上からこちらを覗き込んでいる小十郎のおもてを見つめ返した。
「半刻だ、起きろ」
 半間ほど開かれた障子の向こうから差し込む月明かりが、小十郎の横顔を明るく照らしている。
「あ、右目の旦那⋯⋯?」
 ようやく覚醒し、佐助は目をしばたたくと、きょろりとあたりに視線を巡らせた。
 背中にはやわらかな敷布の感触があり、小十郎の寝床に寝かされていたのだとわかる。
「そうのんびりもしてられねえだろ」
 宵闇のうちに発った方がいい、と佐助が身を起こすのを待って、小十郎が頬宛と忍装束を差し出してくる。下に着込んだ鎖帷子はそのままに、上着だけ脱がされていたようだ。
 何気なく振り向くと、横になっていた敷布の上、ちょうど首の後ろと両脇の下とのあたりに濡れ手ぬぐいが落ちているのが見えた。冷水でひやされていたらしいそれらを、小十郎の手が回収していく。
「ごめん、濡らしちまったね」
 敷布に水染みができているのを目にとめて、申し訳なさげに眉尻を下げる佐助に、
「構わねえ。布団なんざ干しゃあいいんだ」
 さばけた調子でそう答える小十郎に含みはない。
 やがて佐助が衣服を整え、屋敷の庭へと続く縁に出ると、小十郎もその後を追ってついてきた。
 見送ってくれるらしい。
「今夜はいろいろありがと」
「ああ。気をつけて行け」
「じゃあまたね」
 佐助はトンと地を蹴り、数間先の土塀の上へとその身を躍らせた。
「おい、忍」
 呼ばれて振り向けば、縁に立った小十郎がにやりと人の悪い笑みをその頬にひらめかせており、
「次は病んでねえときに来い。そうでねえと――」
 口のひとつも吸えやしねえ。
 と、嘯いた。






了 2010.09.05

・ネタ元について:

『60分以内に7RTされたら風邪をひいて弱っているBASARA佐助を描きます。 http://shindanmaker.com/44079 #yomeijimetai』
本来絵描きさん用の診断なのですが、自分字書きなので文章で。