「あれ、いま雨降ってるの?」
忍小屋に入って来た小十郎が、三和土(たたき)で水気を切った傘をたたんでいるのに気付き、佐助は目を丸くした。
「霧雨だがな」
道理で音がしなかったわけだ。佐助はちょうど薬研(やげん)で木の実を磨り潰していたところで、その音とも相俟って、外の気配の変化に気付かなかったらしい。
「でも外明るくない?」
「狐の嫁入りだ」
小十郎が慣れた様子で板の間へと上がって来る。彼がこの忍小屋をおとなうのももうこれで何度目か、数えることを放棄させるくらいには多くなった。この小屋の中での彼の定位置は、戸口に近い側の囲炉裏の傍ら。今日もまた、そこへ腰を据えようとしているのが佐助の視界の端に映る。
「ああ、天気雨か」
なるほど、とひとつ首肯して、佐助はふたたび転輪の棒を握り、手元の作業に意識を向けた。
現在、甲斐の武田軍と奥州の伊達軍との間には一時的な和睦が結ばれている。その証として両陣営からそれぞれ身分のある家臣が一名ずつ相手の軍へ派遣されており、伊達軍からのそれが小十郎というわけだった。小十郎の身分は有り体に言えば人質だが、両軍間に違約が起こらない限りは客将の扱いとなる。故に黒龍を取り上げられることもなく帯刀したまま、逗留している上田城を中心に、ある一定の範囲での自由を約束されていた。
「てめえは行かねえのか」
「へ?」
唐突な発言に佐助が顔を上げると、囲炉裏の向こう側、珍しくいたずらっぽい笑みを浮かべた小十郎と目が合った。
「嫁」
男のひどく端的な一言に、
――あ、そういうこと。
すぐさま意図を理解して、
「俺様天狐よ? ただのキツネじゃないんだから。嫁にも婿にも行かないよ」
そう応じて佐助も笑う。
こんな巫山戯たことを進んで口にするあたり、今日の小十郎はずいぶん機嫌が良いようだ。
「旦那こそ嫁に行かないの」
「天狗が嫁に行くなんざ、見たことも聞いたこともねえな」
「あー、それは俺様も聞いたことないかも」
ふふふと笑って薬研を脇によけ、佐助はおいでおいでと小十郎を手招いた。どういう風の吹き回しかは判らないが、どうやら小十郎が自分に構われたがっているようだと気付いたのだ。
「なんだ?」
「いいからいいから」
おそらく小十郎自身にその自覚はないのだろう。
「まだ途中なんじゃねえのか、それ」
と、薬研を指差して言うのへ、
「急ぎじゃないから構わないよ」
腰を浮かせかけた小十郎の腕をすかさず捉え、
「せっかく右目の旦那が訪ねて来てくれてるってのに、ほったらかしじゃ悪いでしょ」
「別に俺は⋯⋯!」
小十郎が反論しかけるのを、
「俺があんたを構いたいんだ」
笑って制し、抱き寄せついでに、ちゅ、と音をたてて頬に軽く接吻ける。
「!」
途端に眦を染めて小十郎は黙り込んだ。
――だから大人しく言うことを聞いてくれ。
そうして袷を開くために伸ばされた忍の指を、もう小十郎は拒まなかった。
外の気配に意識を向けると、かすかに、だか確かに、空気に溶けるような静もった旋律で水の降る音が流れている。
雨中では虫の音(ね)も絶え、鳥のはばたきも止んで久しい。水辺から遠い山中であるためか、雨蛙の鳴き声すらも届かない。
佐助は、小十郎の剥き出しの両肩を包み込むように腕を回して胸に抱き込み、その乱れた髪を手櫛で梳いていた。
「静かだねえ⋯⋯」
佐助が呟く声もまた、あたりの雰囲気を慮ってか潜(ひそ)まっている。
こういう静けさは嫌いではない。
シンとした気配の中、事後の気だるく緩い刻(とき)を、何をするともなくふたり身を寄せ合って過ごしていたが、やがて、
「そう云やあ、いま思い出したが⋯⋯」
と、小十郎が身じろぎ、佐助の腕の中から上体を起こした。
「天狐と天狗とを同じものだとする説があるんだが、聞いたことはあるか?」
腰を覆っていた着物を引き上げ、肩から羽織り直して最小限の身仕舞いをすると、小十郎はふたたび佐助の隣に腰を落ち着ける。
「いや、知らないねえ」
初耳だよ、と佐助が興を惹かれた素振りを見せれば、
「天狗ってのは『てんのいぬ』と書くだろう?」
そう言って、佐助の腕を取り手のひらを上に向けさせて、左手の人指し指で『天』、『狗』と文字をつづってみせた。佐助は戦忍ながら識字で、書くことは苦手――書くのは忍文字が専らであるため――だというが、読み下しにはまったく困らない。
「これを『あまつきつね』と読むらしい」
「あまつきつね」
「ああ。天(てん)の狐(きつね)、すなわち天狐(てんこ)」
「へえ⋯⋯」
「古い文献にそういう記述があるんだそうだ。ずいぶん昔に、ある寺の和尚から聞いた話だが――おもしろい説だと思ってな」
それで覚えていたのだと締めくくり、小十郎は佐助の手を解放した。
「天狐と天狗が同じ⋯⋯」
毒にも薬にもならぬ徒話ではある。が、佐助の脳裏には抗い難い夢想が沸き、意識しないままにそれは彼の口をついて出ていた。
「だったらさ、旦那ウチに嫁に来る?」
天狐と天狗が同じ生き物だというのなら――。
口にしたそばから、呆れられることを覚悟した佐助だったが、意外にも、
「そうだな。通い婚で良けりゃあ考えてやってもいいぜ」
惑いない速さで肯定が返される。
「い、いいの? ほんとに?」
「なんだ、てめえが言い出したことだろうが」
何をそんなに驚くのかと、そこで初めて小十郎が呆れ顔を見せた。
「だって!」
そんなこと言ったって。
更に何をか言い募りかけ、佐助の表情がわずかにゆがむ。
互いの主はそれぞれ別人で、ひとりきり。一生涯、それを違えよう二心など微塵もありはしないのに。
小十郎に指摘されたとおり、自分の発案であるにも関わらず、改めて現実に目を向けてしまえば、その道行の先に光は見えず。
いまこの瞬間のように、ひとときの休戦を共に過ごすことは出来たとしても、佐助と小十郎とが同じ未来(もの)を見据え、肩を並べることなど有り得ない。
御伽噺じゃないか――。
佐助はうつむき唇を噛む。
「⋯⋯」
でも。
だけど。
佐助はひとつ息を吐くと、
「じゃあ俺様ここで待ってるからさ」
暗澹と沈みそうになる気持ちを振り払って顔を上げた。
「いつか天気雨の日に嫁いで来なよ」
自身をも欺く得意の笑みで明るく言えば、
「いいぜ」
穏やかな光をたたえた小十郎の双眸に受け止められる。佐助は不覚にも一瞬動揺し、言葉を忘れた。
「⋯⋯旦那?」
ひとり抱え込んだ気になっていた胆(はら)の底のしこりが、じわりと溶けはじめていくのが自分でもわかる。
「いつか、な」
佐助に言い聞かせるように敢えて声にして、小十郎は口端を緩め頷いて見せた。
佐助の懊悩は小十郎の煩悶も同じだ。
互いに思慮も分別もある大人だから、幼子の無邪気さで交わせる約束などありはしないと解っている。所詮叶わぬ夢物語だ、と。けれど、そうと知っていて、それでも。
たとえ果たされぬ約束であったとしても、それを交わしても良いと、そう思った気持ちに嘘はないのだ。
だから今は。
それだけ解っていれば、それでいい。
「右目の旦那⋯⋯?」
己に向けられた小十郎の視線の、その凪いだいろを見つめているうちに、彼が何を言わんとしているか、佐助にも伝わったのだろう。やがて、すうっと目蓋を伏せたかと思うと、次にその目が外気に触れたときには、ひどくすっきりとした面持ちになっていた。
そうして本来持つ茶目っ気をその瞳にひらめかせ、
「嫁入り道具なんて要らないし、婚礼の儀なんて俺様の柄じゃあないからさ⋯⋯」
そう言うと小十郎ににじり寄り、その耳朶に唇を押し当て囁いた。
――その身ひとつで嫁いでおいで。
了 2010.08.27