「――――っ!!」
声になる寸前の音を無意識に噛んで、男の喉がひどく震えた。際限なく求め合った身体の、それが断末魔だったのだろう、すがるようにして相手の男の痩躯に回していた腕が、おびただしく噴き出した初夏の汗に滑る。背を打つ、と反射的にすくめられた身は、しかし、細いが勁い二本の上肢に支えられて、衝撃を受けることなくゆっくり敷布の上へと返された。
彼らが身体を重ねた回数はまだ片手の指に余るが、ひとたび事に及べば余程の制約がない限り、一度きりで済んだためしがない。ふたりのどちらもが、常にこれが最後になるかも知れない、と刹那感に囚われているからだ。ゆえに歯止めが効かず、互いに限界を超えて相手をむさぼり尽くさんとしてしまうのだろう。
「右目の旦那、大丈夫?」
それでも、受け容れる側に比べればまだ余裕のあるらしい佐助の気遣いに、しかし声も出せず首も振れず、相手の顔に焦点を合わせることすら出来ぬまま、ただ意識した瞬きで小十郎が応じると、そんなわずかばかりの反応から心情を読み、
「また無理させたよね」
でもありがとね、と続いた感謝の言葉とともに、乱れ落ちた前髪を撫で付けられ、玉の汗が浮かんだ額に、そっとひとつ唇が落とされた。
礼を言われるようなことじゃない――。そう思うのに、現状、小十郎は満足に口を利くことすらままならず、後始末に動き始める佐助の手に疲弊した身をただ任せているしかない。
因みに、いまでこそ笑い話になっているが、ふたりがはじめて関係をもったとき、気遣いの後に続いたのが謝罪の一言だったために、小十郎がひどく憤慨し佐助に詰め寄ったという経緯がある。
曰く、てめえは謝らなきゃならねえようなことをしたのか、と。
要するに小十郎は、自分とわりない仲になってしまったことを佐助が後悔していると、そう解釈してしまったのだ。無論、佐助にそんな意識はなく、身体的に無理をさせたことに対して謝ったに過ぎない。
このときの誤解はすぐにその場で解くことが出来たが、以来、佐助は事後に言葉を掛けるとき、限界まで付き合ってくれてありがとう嬉しいよ、の気持ちをこめて感謝の言葉を口にするようになった。その言葉に対する小十郎の戸惑いにも気付いているが、己の言動について改める予定は、今のところ、ない。
佐助に全身の汗や諸々の体液をていねいに拭われ、脱ぎ捨てられていた夜衣まで世話されて、あらかじめ用意されていた新しい寝具に小十郎の身体が移される。
佐助の手によって身の始末をつけられることに関して、最初は小十郎もずいぶんと抗ったのだ。さりとて、阻止しようにも指一本満足に動かせない有り様では如何ともし難く、言葉で抵抗したところで身体はされるがままになってしまう。身体が芯を失ったような消耗ぶりで、倦怠感が半端ない。
佐助が自身の身仕舞いを短時間で終える頃、ようやく息の落ち着いた小十郎が身じろいだ。
喉を潤そうと起き上がりかけるのを、けれど片手で制されて、枕元に置かれた盆の上、湯呑に汲み上げられていた水が口移しで与えられる。
「⋯⋯構い過ぎだ」
それくらい自分で、と、ようやく口を利けるようになった小十郎からは、真っ先に抗議の声が上がる。
「いいじゃん、これくらい。俺様の好きにさせてよ。めったに会えないし構えないんだからさ」
しかし、笑って佐助が取り合わないのもいつものこと。
この日、佐助は、甲斐からの使者として政宗のもとを訪れた主・真田幸村の供をして、奥州の地を踏んでいた。そして、幸村を伊達屋敷に残し、夜半ひそかに小十郎の屋敷へ忍んで来たのだ。
「それより喉大丈夫? 傷めたりしてない?」
声出した方が楽なのに、との佐助の言葉は、単なる事実であって揶揄いの意図はない。
「その方が気持ちもいいでしょ」
途端、小十郎はうなじに血がのぼるのを感じた。
馬鹿なことを、と即座に否定できなかったのは、佐助の言が正しいと、小十郎自身、身をもって知っているからだ。それでも佐助の言うとおりに声を上げないのは、意地でも痩せ我慢でもない、無意識の条件反射のようなもの。今宵に限っていえば、己の屋敷で気を許すままに啼けはしないと、潜在意識がはたらいてのことかも知れなかった。
「右目の旦那がキツくないならいいけどね。でもほんとは」
――もっと聴きたいんだよ、あんたの好い声。
腰を重くする低音で、わざと耳朶を食むようにして囁いた忍の頭を、
「言ってろ」
苦笑いと共に、小十郎の力ない左こぶしがコツンと殴りつけた。
この夜から約ひと月後の夏の盛り。
主である奥州筆頭・伊達政宗が武田信玄に宛てた書簡を懐に、小十郎は愛馬の背に揺られることになる。
織田信長が安土城に斃れてのち、西国では豊臣軍が力をつけ不穏な動きを見せ始めていた。それを警戒した甲斐の虎こと武田信玄が、越後の上杉軍と奥州の伊達軍とに一時的な同盟の締結を打診してきたのが先月のこと。幸村が佐助を伴って奥州を訪れた用件が、それである。
誰の下につくことも善しとはしない気質の政宗であるが、信長との一件を経験したことがその判断に影響を与えたものか、信玄からの提案を無碍にすることはなく、そうして数日前に開かれた軍議の場に於いて、伊達軍のとるべき方針が定まった。
豊臣軍の人の情を無視した遣り様が意に染まず、かと云って、いたずらに争い世を混乱に陥れることも本意ではない。ゆえに、同盟という形はとらないが、武田軍・上杉軍が豊臣軍と交戦している隙に背後を突くと云った卑怯な真似もしない――それを確約する、というものだ。
元より、伊達陣営の中には豊臣の性急で強引な統治に不快感を持つ者が多く、急速に肥大化していく彼らの勢力に対抗するためならば、武田・上杉と暫定的に協力する道もあるのではという声が既に上がっており、協力態勢に向けた機運は自然と高まりつつあったのだ。
軍議解散後、政宗はさっそく一通の書状をしたためた。
「――で、これを武田のおっさんのところまで、誰に届けさせるか、だな」
執務室の主の独り言のような声がした直後、部屋の隅に置かれた文机の前で、彼の政務を手伝っていた小十郎はひとつの決意を秘めてしずかに顔を上げた。
「政宗様、そのお役目――僭越ながら、この小十郎にお命じ下さいませ」
政宗の名代となるのだ、当然半可な者を遣るわけにはいかないが、その点、小十郎であれば何の問題もない。
「Hum」
政宗が興味深げに片眉を上げた。
「それは構わねえが⋯⋯。珍しいな、おまえが自分から何か強請るなんてよ」
「ねだるなどと、そのようなことでは――」
ございませぬ、と口早に否定する、その狼狽ぶりこそが既に常の小十郎とは違っていることに、本人は気付いていない。
「ついでだ、返事もおまえが貰って来い」
「!」
つまり、それまでのあいだ甲斐に逗留していろと言われたわけで、政宗の真意を悟った小十郎は、耳朶ばかりか首までを仄赤く染めてうつむいた。
政宗には、佐助との仲を知られている。
要は佐助とゆっくり会って来いと、そう暗喩されたのだ。平然と構えていられる筈もない。
「幸い奥州の情勢はいま落ち着いてる。軍師のおまえがいっときここを離れても、どうということはねえ」
無論、小十郎もそれを見越して名乗りを上げたのだが、改めて言葉にされると、私欲にまみれた下心――それは小十郎の卑下だが――を見透かされたようでどうにも気恥ずかしく、顔を上げられなくなってしまう。
「たまにはいいじゃねえか、行ってやりゃあ。武田の忍がこっちに来るばっかじゃfairじゃねえ。おまえもそう思ってたんだろ?」
政宗が言うとおり、ふたりの関係に於いては佐助が奥州を訪ねるばかりで、小十郎が政宗に従う以外で甲斐へ赴いたことはかつてない。もっとも、この不公平は互いの想いの差を示すものではなく、佐助ならば空を疾く飛ぶすべを持っているし、また、小十郎のそれに比べて自由の利く立場でもあるから――それが主な理由だった。
だから、主の許しが得られた正当な任務でありさえすれば、自ら甲斐へ出向きたいと小十郎は常々考えていたのである。そんな彼にとって、今回の使者としての役目は渡りに船。これを機に日頃の借り――と言ってしまうと語弊があるが、心情的にはそれと大差ない――を返せたら、と思い立ったのだった。
煩く感じるほどの蝉の声が四方八方から、わんわんとまるで全身を包みこむように響き、じわりと滲む汗が首筋を伝って旅装束の襟に染みていく。
じりじりと肌を焦がす強烈な日差しを菅笠で遮り、一路甲斐を目指して、後世に奥州道中と呼ばれるようになる街道を南下しながら、小十郎は気付けば佐助のことを考えてしまっている自分に戸惑っていた。
――参ったな。
自身が思っているよりもずっと、自分は佐助という男の存在に意識の多くを占められていたらしい。
奥州にいるときには気付いていなかった。
政務や戦のことを最優先に考えないで良い環境に身を置かれたせいなのか、はたまたこれから向かう先に彼がいると思うからなのか、重要な文書を身に着けた道中である以上、周囲への警戒を怠りはしないが、それでもふとした瞬間、意識の隙間に現れるのは橙色の髪をもつ忍の顔で。
野営の間も、獣避けの焚き火の炎がゆれうごく様に、その男の面影を見てしまう。
旅の一番の目的は佐助に会うことではないというのに。
――どうかしているな。
任務以外のことに意識をうばわれるなど、自嘲するしかない。
そうは云っても、甲斐で顔を合わせたとき、かの忍がどのような反応を見せてくれるのか、それは純粋に楽しみだった。
甲斐に到着後、小十郎はまず躑躅ヶ崎館の信玄のもとを訪れた。目通りを許され、政宗から預かった書簡を手渡す。その際、返事を書き上げるまでの数日間を、幸村の治める上田で過ごすようにと、信玄から示された。
小十郎にとっては、願ってもない処遇である。
やがて、信玄の屋敷まで幸村が小十郎を迎えにやってきた。その幸村と共に、上田城へ向かう道を辿りながら、
「おい、真田」
幸村と会ったときから感じていた違和感を解消すべく、小十郎は、轡を並べる若武者の名を呼んだ。
「はっ、何でござりましょうか、片倉殿」
「姿が見えねえようだが⋯⋯てめえの忍はどうした」
いつもなら、幸村の傍らに陰になり日向になり従っている筈の男の姿が、いまはないのである。
「佐助のことにござりまするか? それならば――」
続く幸村の説明に、小十郎は心底肝を冷やした。
上田庄に足を踏み入れた小十郎が小者に馬を預けるや、
「長旅でお疲れとは存知まするが、片倉殿さえ宜しければ、これより佐助の元へ案内致しまするが」
如何か、と幸村が提案してきた。
当然、小十郎に異論があろう筈もない。一も二もなくそれに従うことにした。
が、幸村の後をついて屋敷の敷地を出、裏山へ分け入り、獣道と呼ぶに相応しい小路を進むにつれ、小十郎の頭にひとつの懸念が沸いてくる。
ついには黙っていられなくなり、前を行く幸村の背中に声を掛けた。
「真田、つかぬことを訊くがな」
「はい?」
「これからてめえが向かおうとしているのは、よもや⋯⋯いわゆる『忍小屋』ってヤツじゃねえだろうな」
伊達の配下にも草の者たちは存在する。個々に黒脛巾、集団を黒脛巾組と呼ぶ彼らの生活拠点は、その任務の性格上、仲間内にしか知られてはならぬ性質のものだ。佐助自身に問い質すまでもなく、それは甲斐の忍でも変わらないだろう。
「それがどうか致しましたか」
振り向いた幸村に、きょとんとした表情でそう返され、小十郎は無意識にこめかみを押さえた。
「ったく、てめえは⋯⋯!」
まさかとは思ったが、やはりそうなのか。
無神経にもほどがある。
「引き返すぞ」
「? なにゆえにござりまするか」
そんな場所へまっすぐ連れて行かれようとしていたことに、小十郎の方が正直めんくらっていた。
この場合、迂回路をとるのは無論のこと、目隠しのひとつも施すべきではないのか。欺かれる当事者であるところの小十郎が懸念すべきことではないのかも知れないが、同盟に等しい和議の約定をたずさえこの地に来た身としては、義を通さずにいられない。
しかし、
「されどもう遅うござる。⋯⋯着き申した」
小十郎の制止は間に合わなかったらしい。幸村の指差す方向に目を向ければ、竹藪で巧みに入り口を隠蔽した、質素な建物がその視界に飛び込んで来た。
小十郎はゆるく首を振り溜息をつく。
見てしまったものは仕方ない。
諦めて幸村と共に竹藪の中へ入り、そのまま戸口へと数歩近づいた、次の瞬間――、
「!?」
ひゅっと風を切り裂く音がして、自分目がけて飛んで来た物を、小十郎は咄嗟に腕の籠手で防いでいた。
カン! と甲高い金属音をたてて防具に弾かれ、足元に落ちたのは一本のクナイ。
「さ、佐助! 何を⋯⋯!」
客人になんという真似を、と小屋に向かって叫ぶ幸村を、
「真田」
構わないのだと小十郎が制するより早く、小屋の中から声がした。
「気配も足音も確かに知った人のものだったけどさ⋯⋯」
佐助の声だ。だがいつもの軽快なそれではない。
「いまの俺には確かめるすべがなくってねえ」
語尾を引きずった粘着質なしゃべり口調。
「本物の右目の旦那なら――」
これくらい予知してるだろうし、避けるでしょ?
軽口が信条の佐助に似合わぬ、うっそりと自嘲にひずんだ声が昏い笑いを響かせた。
躑躅ヶ崎館から上田へと向かう道すがら、小十郎が幸村に聞かされたのは、前夜、上田城に賊が侵入し、それらと交戦するに至った佐助が、目くらましの毒を食らったという話であった。
その瞬間を目撃したわけではないため、幸村にも仔細はわからないということだったが、どうやら佐助は配下の忍を救うか庇うかしたらしい。
『そうでなければ、佐助があのように⋯⋯不覚を取るなど有り申さぬ』
きっぱりと言い切った幸村の横顔と声色に、部下への信頼が透けて見えた。
この話を聞き知った時点で、佐助に会うことは避けなければならなかったのだ、本当は。
小十郎は己の迂闊に臍を噛んだ。
もしも自分が同じ目に遭ったとして、竜の右目としての役割を満足に果たせない己の無様を、いったい誰に見せたいというのか。快癒するまで誰にも会いたくないに決まっている。相手が佐助であっても、否、むしろ彼にであるからこそ、見せたくないと感じるだろう。
そのことに思い至らずここまで来てしまったのは、ひとえに気持ちのどこかで自分が浮かれていたからだと、冷静になった今ならばわかる。
会いたい気持ちが強すぎたのだ。
小十郎は左手で片目を覆って項垂れた。恥ずかしくて居たたまれないとは、こういう心境を云うのだろう。
平生の自分を取り戻した今は、その願望とは別に、負傷した佐助の姿をこの目で見、怪我の具合を確かめたいという欲が芽生えている。ただ、それが相手に歓迎されないだろうことも同時に理解していた。
小屋の中からは、あれきり何の物音も聞こえない。佐助はその気配すら断っているようで、先刻の遣り取りがなければ無人を疑うところである。
幸村を城に引き上げさせ、いま忍小屋の前に残っているのは小十郎ひとりだ。わんわんと響く蝉の声に全身を包まれて、しかし、彼は逡巡したまま足を踏み出すことが出来ずにいる。
――どうしたもんだかな⋯⋯。
だが、後悔するなら、せずに後悔するよりは、やって後悔する方がましだ。
そう結論付けて、
――よし。
目を閉じて自分に喝を入れ、ふうっとひとつ息を吐くと、眼前の戸に手を掛けた。
小屋の中は真っ暗だった。
昼の日中だというのに雨戸が閉め切られているせいだ。もちろん燭台に火は灯されていない。
「早く閉めてくんないかな」
陽の光が目に痛いのだと告げる佐助の声には、先刻と変わらずあからさまな棘が見える。
「すまん」
慌てて小十郎は戸を引いた。
蝉の声がわずかばかり遠くなる。
戸口から差し込む光源を失えば、途端に視界は闇に閉ざされた。暗さに慣れぬ小十郎の目では中の様子がわからない。
「で、何しに来たのさ」
「!」
投げつけるような佐助の声に、思わずビクリと肩が跳ねた。さっさと出て行けと言われたように感じて、小十郎は返す言葉に詰まる。
「真田の旦那に聞いたんでしょ、俺がヘマしたってさ」
自分を蔑むような佐助の物言いに、小十郎は胸を突かれ息を飲んだ。
「しの⋯⋯」
佐助を呼ぼうとした声も、
「用がないなら帰んなよ」
素気なく遮られ、取りつく島もない。
「俺様こんなだからさ、なんのおもてなしも出来ないよ」
皮肉を絵に描いたような口調が痛々しく、いっそう胸が重くなる。
こんな佐助は、知らない。
――いや、違う。
そうではない。
知らなかっただけ、だ。
今まで佐助が見せて来なかっただけ。
自分が知ろうとしなかっただけ。
いつだって余裕の素振りで、ときに小十郎を揶揄い、他愛のない悪ふざけを仕掛け、真剣な眼差しを隠して軽薄を装う忍。
小十郎が知っているのはそんな男だ。
自分はこの男のことを、どれほど知っていたというのだろう。知ったつもりになっていただけではないのか。
小十郎は苦い想いに唇を噛んだ。
何にせよ、意図的にか無意識にかは判らないが、佐助がこれまで見せずに隠してきたものを、短慮のあまり強引に暴いてしまったことだけは間違いない。
自分の願望はこのさい脇に置いて、ここは大人しく引くべきだ。
小十郎はそう結論付けた。
だが。
姿を現したくないのならそれでもいい。顔を見られたくないならそれでいい。
ただ、会いたい気持ちで自分がここまで来たこと、それだけは、伝えてからでなければ帰れない。
胸の裡を吐露したら、この場を辞そう。そう決意して、
「悪かった。てめえの都合も考えねえで押し掛けちまって」
小十郎は真っ先に謝罪の言葉を口にした。
佐助からの反応はない。が、聞いているらしいことは気配でわかる。
ここへきてようやく、闇に慣れ始めた小十郎の目に、部屋の隅の暗がりの中、両膝を抱いて息を潜める佐助の姿が、おぼろげながら認識できるようになっていた。任務につけない状態であるためか、佐助はいつもの忍装束ではなく、作務衣のような簡素な着物を身につけているようだ。
「此度の名代の件は俺から政宗様に願い出た。甲斐へ遣いを出すなら自分に、と」
赤裸に、佐助に会いたかったからだ、とは流石に言葉に出来ず、
「俺はいつも奥州にいて、待っているだけで」
婉曲に逃げてしまうことを許して欲しい。
「てめえに甘えてばかりだと思っていた」
腰が重い理由を軍師という立場に求めて己を許し、自分は出来るはずの努力を疎かにしてはいなかっただろうかと、改めて顧みる。
「今回の任務は、いい機会だと思ったんだ。だから」
だから、使者の役目を買って出た。
そのことだけは知っておいて欲しい。
直截に、ただ会いたかっただけなのだ、とは、やはり最後まで口に出来ず、
「その目、早く治せよ。⋯⋯大事にしろ」
最後にそう言い置いて、小十郎は佐助に背を向けた。
「右目の旦那!」
小十郎が身体を反転し戸口に手を掛けたところで、背後から佐助の鋭い声が飛んだ。
「待った! 帰んないでくれ⋯⋯!」
切羽詰った響きを耳にし、肩越しに顔半分で振り向けば、壁伝いに立ち上がり、こちらへ向かって来ようとしている佐助の姿が見えた。
「ばっ⋯⋯動くな! 座ってろ! 危ねえだろうが!!」
今そっちに行くから、と佐助のそれ以上の動きを封じ、草鞋を脱ぎ捨て板の間へと駆け上がる。囲炉裏をよけ、腰を落とした佐助の正面にまわり込めば、気配に向けて伸ばされた忍の腕が、立ったままの小十郎の陣羽織の腿あたりを掴んだ。
触れた途端、ぎゅう、と、溺れる者がすがる強さで布地を握り締められる。
「ごめん」
うつむいて声を搾り出す佐助の顔には、両の眼窩を覆うように晒しが巻かれていた。
「完全に八つ当たりだ⋯⋯ごめんね」
「謝るな。お互い様だろう?」
こちらも配慮が足りなかったのだ、と声を潜めるようにして囁きかければ、
「修行時代以来だよ、こんなみっともないの」
深い溜息まじりの苦笑いがこぼれた。
「イライラして落ち着かなくて⋯⋯それであんたに当たっちまうなんて最低だよね」
それ相応の訓練を積んでいる、佐助ほど技能にたけた忍であれば、視界を奪われただけで身動きがまったく取れなくなるようなことはない。それでもやはり、見えないというのは精神的に相当な負荷がかかる。不自由に苛立つ精神を宥めきれず、負の感情を爆発させた結果が、佐助をして排他的な一面を露呈させたのだろう。
「真田にあらましは聞いたが、その目、今どうなってんだ?」
佐助の手が陣羽織を離すのを待って、小十郎は床に片膝を着き、顔を上げた男と正面から向き合う。無論、晒しの下の目までは見えないため、このままではどのような具合なのか、確かめることは不可能だ。
万一片輪になってしまっていたとしたら、もう忍としては働けまい。それでも佐助ならば、信玄や幸村のもとで、出来る仕事を探して生きて行くのかもしれないが。
しかし、この小十郎の最悪の想像はすぐに否定された。
「今もまったく見えないってわけじゃないんだ。焦点がブレて定まらないけど一応見えはする。ただ」
外的な刺激、特に明るさに対してひどく過敏になっており、
「目を閉じてても明るいとちょっと辛い。無理して目蓋上げてると痛くて涙が止まらなくなる。そういう状態」
佐助は明快に答えた。
「ちゃんと治るんだろうな?」
念を押す小十郎に頷いて見せ、
「それは大丈夫、保証するよ。食らったのが知ってる毒だったからね、薬の処方もわかってる」
不幸中の幸いというやつだ。
「けど、まともに視界が利くようになるまでには、最短でも二、三日掛かっちまうんだよねえ」
「そう、か」
「ま、とりあえずそんなとこ?」
茶化す余裕が戻って来たのか、佐助の声音は明るく、無理に軽く振舞っているわけでもなさそうだ。
「おい忍」
「ん?」
小首をかしげる、その見知った仕草にほっとしつつ、
「触るぞ」
敢えて予告したのは、見えないことに対する小十郎なりの気遣いだ。
不意打ちにならないように配慮し、まずは座り込む佐助の手に触れる。素手の甲の側からぐっと握り、
「旦那?」
見えない目を向けてくる佐助を正面にとらえ、次の瞬間、
「うわ!」
小十郎は腕を掴んで引き寄せた佐助の身体を、肩口からぎゅうと両腕に抱き込んだ。
「な、なに、どしたの突然⋯⋯!」
宣言のおかげで触れられることには心構えをしていたが、よもやそれが抱き締めるという行為に至るとは思わず、驚いた佐助の声が裏返る。
「少し黙ってろ!」
骨が軋みそうなほどの強い抱擁に息が詰まる。しかし、
「下手ァ打ちやがって⋯⋯!」
佐助は抗議に開きかけた口をつぐんだ。
しぼり出された声の震えに、いまの小十郎の心情すべてが表れているようで――いや、声ばかりではない、その腕までも、力を込めていなければ震えてしまいそうなのだと気付いたのだ。
「⋯⋯」
ごめんね、と声を出さずに口を動かして、ぽんぽんと、小十郎の腕をやさしく叩き、宥める。
「てめえが目ェやられたって真田に聞かされて、心の臓が止まるかと思った。⋯⋯血の気が引いた」
佐助の肩口でくぐもった声が告白する。
「うん、ごめんよ⋯⋯心配掛けて」
「⋯⋯わかっていたつもりだった。俺もてめえもそれぞれに主がある身だ。互いに知らぬ場所でどんな目に遭おうと、何も出来はしない、と」
だが、それを覚悟していることと、何も感じないこととは別だ。
動揺した自分に、それを思い知らされた。
「こんなに⋯⋯」
こんなに不安に苛まれるとは思わなかったのだ。
「まだまだ俺も甘めェよな」
――覚悟がなっちゃいねえ。
フッ、と自嘲に口を歪め、小十郎はするりと腕を解いた。
「右目の旦那」
離れて行く腕を捕らえようと佐助が手を伸ばすが、さすがに意図したとおりには触れられない。宙を彷徨うそれを、今いちど小十郎の手が捕らえる。
「顔、触らせて」
訴えれば、望みどおり頬へと導かれた。
包み込むように撫でた右手に、小十郎の頬にある傷跡の感触が伝わる。ほかの皮膚よりもわずかに柔らかいその跡は、うっすら盛り上がっているのがわかる。
「このまま帰っちまうかい?」
「てめえがそうされたいならな」
佐助は首を振る。
「帰んないでくれよ」
せっかく小十郎がここまで足を運んでくれたというのに、格好悪いところを見せたくないなどと、気取っている場合ではない。
「体面気にして意地張るより、あんたと居られることの方が大事」
「見られたくないって気持ちは解るがな。だが、俺はてめえのさっきみてえな⋯⋯ああいう一面、知ることが出来て良かったと思ってるぜ」
「ちょっ、それ蒸し返すのナシ! すっげえ恥ずかしいんだから!」
いっときの感情に任せた子供のような振る舞いを充分悔いているのに、これ以上の追い討ちは勘弁だ。
「すまん、悪かった」
笑う小十郎の身体の揺れが腕からじかに伝わる。
「頼むよ、ほんとに」
佐助はてのひらを滑らせ、指先で小十郎の唇を探し当てる。顔を近付け、自分の指を標(しるべ)に唇を寄せれば、意図を察した小十郎が、ぎこちない佐助の動きを援けるように、自ら距離を詰めて来た。
唇が触れ合い、そのまま深く重なっていく。
息をつぐために顎を引こうとする小十郎の動きを封じるように、佐助の手は首裏をしっかと抱え込んで離そうとしない。
「⋯⋯ずいぶんと」
小十郎はあえぐようにひとつ大きく息をつき、
「性急、なんだな」
「駄目かい?」
「いや、そうじゃねえが⋯⋯」
「けど、なに?」
更に手探りで袷をはだけようと佐助が動き出すのを、
「ちょっと待て」
小十郎は慌てて腕を突っ張り、その身体を押しとどめる。
「その、着いたばかりで、まだ湯も使ってねえ⋯⋯」
信玄に目通りするために旅装束をといて着替え、その際汗を拭いはしたが、それだけだ。このままでは少々具合が悪い。
「だから」
小十郎が尚も言い募ろうとするのを、佐助は笑って遮った。
「そんなの気にしないよ。むしろ歓迎?」
――あんたの匂い好きだしね。
「それに、見えなくても右目の旦那だってわかるだろ?」
「!」
そんなふうに言われてしまえば、もう大人しく陥落するしかなかった。
小屋の隅、佐助は壁に凭れ掛かるよう促され、長座させられた。小十郎が下肢をまたいで膝立ちになったらしいのが、気配で察せられる。
「てめえは何もしなくていい」
そう言って、小十郎は自ら衣装を脱ぎ捨て上半身を露わにすると、次いで佐助の衣に手を掛ける。
佐助は簡素な上着の袷を小十郎によって開かれ、衣の下へと滑り込んで来た手に、するりと肌を撫で上げられた。
薄闇の中、はっきりとは見えないが、目以外にはどこにも治療の跡がないことに小十郎は安堵する。
見上げるような格好で顎を上向きにしている佐助の唇を親指の腹で撫で、その後を追って自らのそれで触れた。すぐさま佐助が噛み付くように深くして来るのを受け止め、舌の根がしびれるような愛撫を返す。
何度も角度を変え、飽きることなく唇を合わせながら、小十郎は佐助の衣服を器用に剥ぎとった。
佐助の腕に腰を抱かれ引き寄せられるに任せ、晒し合った膚を重ねる。
その刹那、熱い吐息を零したのはどちらであったか。
口腔に溢れる唾液を飲み下し、小十郎の左手が、佐助の下帯の中から、既に熱く形を変えはじめている物を引き出した。まだ乾いたそれを躊躇いなく握り、くすぐったいような緩さでもって弄ぶ。
わざと、だ。
重ねていた唇をわずかに離し、
「旦那⋯⋯」
焦らさないでよ――。
そうもどかしさを訴えると、
「いいぜ⋯⋯動くなよ?」
欲に掠れた声が応えたかと思うと、ちゅっと音をたてて唇がついばまれ、顎先、喉仏、鎖骨のはざま、胸筋の間――と、順に熱く濡れた小十郎の舌が押し当てられていく。やがて衣擦れの音がして、小十郎が膝で後退ったのがわかった。
「だん⋯⋯」
「黙ってろ」
割れた腹筋に息がかかり、臍を捻じこんだ舌にくじられ、佐助はたまらず背を浮かせ顎を上げた。
「う、わ⋯⋯」
小十郎の左手に握られたそれの先端に、ぺたりと舌が押し当てられる。そのままぬるりと熱い口腔に包み込まれて、佐助は見えない目をぎゅうと瞑った。
「ん、ん⋯⋯」
くぐもった声は鼻孔へと抜けていく小十郎のもの。それを耳にしただけで、カッと首の後ろが熱くなる。
はあ、と熱い充足の息を吐き、佐助は自分の股間に顔をうずめる小十郎の頭に両手を伸ばした。きっちりと後ろに撫で付けられている髪をくしゃりと掻き乱し、耳朶をくすぐるように指先で慰撫する。
「ねえ旦那⋯⋯あんた今どんな顔してるの⋯⋯?」
これから自身が受け入れる刀身を、その口と舌と手とで自ら育てるのはどんな気分?
「なんで今なの」
――俺様見られないのに。
「だから、だろ」
肩で荒い息をついてそれだけを口にし、小十郎はふたたび喉を開いた。
くちゅりと腰を重くさせる濡れた音をさせながら、真摯ともいえる熱心さで小十郎は執拗な口淫をつづけていく。やがて深くくわえ込んだ切先が喉を突きそうになって、
「ふ、っ⋯⋯」
えずく寸前、口を離した小十郎の舌から唾液が長く糸を引いて、ぷつりと切れた。
「も、充分⋯⋯」
髪に絡めた指にわずかに力を込めて顔を上げさせると、両腋に腕を差し入れ、その身を膝へと引き上げる。胸を合わせ、肩に腕を回して抱きしめれば、耳のすぐそばで、けほ、と小さく噎せるのが聞こえた。
「早くあんたの中に入らせて」
耳朶に唇を触れさせて囁けば、
「⋯⋯っ」
ひゅっと息を飲む音がして、小十郎がぶるりと身体を震わせた。
――てめえは何もしなくていい。
その台詞どおり、いま小十郎は自らの指を差し込んで、佐助を迎え入れる場所を慣らそうとしている。
自ら己の秘部を解す行為は、考えるだけで羞恥の極み、ひどい葛藤を伴った。それでもその姿を佐助の目に晒さずに済むのであれば、出来ないことではない。そう腹を括って小十郎は目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出した。
片方の手で佐助の肩につかまり、崩れそうになる膝を必死にたもちながら脚を開き、自身の背後にもう一方の腕を回す。
佐助に借りた香油をまとわせた指一本、それは然したる抵抗もなく飲み込めた。香油を馴染ませるように上下に蠢かせ、更に二本目までは差し込むことが出来たが、その先に進めず、苦しさに呻く。
「旦那、無理しないで」
少しでも気を紛らせようと、既に充分な角度で硬くなっている小十郎自身を佐助の手のひらがあやし始めた。
「よせ⋯⋯!」
とろりと溢れ出した雫を塗り込めるように先端を撫で回されて、こらえ切れず小十郎の膝が崩れる。その動きに合わせて、佐助の指が一本、既に中にある小十郎の指の背に添うようにして後腔に入って来た。
「う、あ⋯⋯っ!」
添った指ばかりか外の手ごと掴まれて、突き上げ掻き回すように動かされ、たまらず声が上がる。
裡のもっとも弱い部位を強く擦られ、
「⋯⋯!」
小十郎は息を噛んだ。知らず背を丸め、佐助に腰を押し付ける格好になる。それは先をねだるような仕草だった。
「もう、待てないから」
佐助の吐く息も熱い。
腕が引かれ、ずるりと指が抜け落ちる感覚に、腹の奥がずくりと疼いた。
「ふ、う⋯⋯っ」
長く息を吐き、腰骨のあたりを佐助に支えられながら、手を添えたそれを下肢の間に迎え入れる。熱く熟れた雁を飲み込んで、上下に身体を揺らして馴染ませ、少しずつ少しずつ腰を落としていく。
決して短くはない時間を掛けてすべてを収め終えて、小十郎はぺたりと腿を着けた。
「全部入ったね⋯⋯」
佐助の声にすら性感を炙られるようで、小十郎の身がおののく。
「めちゃくちゃ気持ちいいよ?」
「云う、な!」
腹の中いっぱい、脈打つ佐助の熱に満たされて、苦しい。苦しいが、ひどく充ち足りてもいる。
この感覚は決して嫌いではない。
「ね、旦那、お願い、声きかせて」
小十郎のかおが見えず、状態を判断する手段に欠いて、佐助は他意なく乞うた。
「声、殺さないで。いまだけでいい、聞かせてくれ」
「⋯⋯」
言われて出せるなら苦労などしない。反論の言葉が一瞬頭を過ぎったが、今日ばかりは、その望みを叶えてやりたいと小十郎は思った。
だから、
「⋯⋯努力、は、して、やる」
期待はするなよ、と釘を刺し、小十郎は上体を支える腕に力を込めると、楔が抜け落ちる寸前まで腰を引き上げた。
努力する、そうは言ったものの、やはり小十郎の口からはほとんど声が聞かれなかった。意図していない我慢を、止めさせるのは難しい。
ただ、視界を奪われたいまの佐助の聴覚は、平素以上にするどく研ぎ澄まされており、些細な音をも拾い上げる。いつもの情交と何も変わらない筈なのに、弾む呼吸も濡れた音も、まったく違って聞こえてくるのだ。
だから気付いた。
佐助の背後にある板壁に手をつき、揺すり上げられるままに悶え、自らも腰を振って応える小十郎の、喉奥に閉じ込められた声になる寸前の音。それが、快いときには快い、もどかしければもどかしい、そう確かな響きで啼いていることに。
いつだって小十郎は、声になどせずとも、充分その心情や状態を佐助に教えてくれていたのだ。
それを知ることが出来た。
こういうのも怪我の功名というのだろうか。
佐助は耳をそばだて、小十郎の『声』の変化をつぶさに捉え、浪がり啼くところばかりを狙って突き上げてやる。
佐助を飲み込んだ小十郎の内襞は熱く、柔らかく溶けて、そのくせ腰を引くたびに、離すまいと絡み付いてきた。
心地よくてたまらない。
いつまでも抱いていたい、そんな叶わぬ想いが湧き上がる。
やがて小十郎から返る反応がだんだんと鈍くなり、佐助の動きに合わせ、ただ揺すぶられるだけになっていく。
――右目の旦那?
その身体をむさぼることに夢中になるあまり、すっかり失念していたが、小十郎は長旅の果て、今日この地に着いたばかりの身であったのだ。疲弊していて当然で、この情交の最中、体力の限界を超えてしまったのかもしれない。
「右目の旦那」
呼べば、愉悦に耐えて閉じられていた目蓋が上がり、熱にうるんだ双眸があらわれる。しかし、その様は佐助には見えていない。
「もう、終わりに、して、くれ⋯⋯」
途切れ途切れに言葉をつぎ、小十郎は力の入らない腕をどうにか佐助の背に回すと、その肩口に顔を埋め、どうにでもしろというように全身の力を抜く。
その後のことは、正直あまりよく覚えていない。が、焦らされることなく昇り詰めさせられて、そのまま気を失うように眠りに落ちたらしかった。
一刻ほどののち、小十郎は目を覚ました。
「あ、起きた?」
身じろいだ気配を察したのだろう佐助の声がする。
「長旅で疲れてた筈なのに、気づけなくてごめんよ」
「いや、それは気にするな」
ここへ足を向けたことも、佐助を受け入れたことも、どれも小十郎自身が望んだこと。心底意に染まぬことであったなら、本気で抗うくらいはしていただろう。
小十郎は寝かされていた布団から上体を起こした。まだ身の裡に佐助の熱を飲んだままでいるような、鈍く重い感覚が残っている。
起き上がってみれば、佐助の姿はすぐ側にあり、その手にうちわが握られているのが見えた。小十郎が眠っている間中、それで風を送り続けていたらしい。光源を絶つために締め切られた、室内の暑さを心配したのだろう。
眠っている間に身体を拭われ、身の裡に注がれた物まで始末されて、更には新しい単衣に着替えさせられていることに気付き、小十郎ははなはだ複雑な心境になる。
世話をしたのは佐助で間違いないだろうが、不自由な目の彼に、これだけのことをさせてしまったのかと思うと、申し訳ないような、自分が情けないような。
けれど佐助が気にしていないことはもう知っている。だから礼を云うにとどめ、謝罪の言葉は飲み込んだ。
まだどこか気怠く物憂い身を壁際に寄せて座り直すと、佐助もそれに倣って腰を上げ、小十郎の隣に移動してきた。
ふたり並んで壁に背を預ける。
相変わらず部屋の中は薄暗いままだが、肩が触れ合うほどの距離にいる佐助の横顔程度なら、特別な訓練を積んでいない小十郎の目でも、苦労なく捉えられた。
「ところでさ、いつまでこっちに居られるの?」
自分と小十郎との間で、利き手に持ったうちわをぱたぱたと打ち振りながら、佐助が滞在期間を訊いてきた。
「信玄公の返事を貰うまで、だな」
少なくとも三、四日は世話になることになるんじゃないか、と伝えると、
「そっか。なら、旦那がここを発つ頃には、あんたの顔、見られそうだね」
良かった、と明るく笑い、しかし、
「あーあ」
不意に大きなため息をつくと、佐助は天を振り仰いだ。
「大将、十日間くらいお仕事サボってくれないかなー」
「⋯⋯」
「⋯⋯あれ? 『なに馬鹿なこと言ってんだ!』って、言わないの?」
小十郎の声色を真似て聞かせ、目で見ることはできないものの、それでも様子をうかがうように傾いだ佐助の顔が傍らに座す小十郎の方を向いた。
「言えねえさ」
「?」
「⋯⋯俺もたいがい馬鹿だってことだ」
「!」
一瞬、小十郎も似たようなことを考えてしまったのだ。信玄が返書を書き上げないうちは、誰に咎められることもなく、ここに居られるのに、と。
「嬉しいなあ」
佐助の口端が、思わず、といった風情でふわりと溶けた。
「俺様だけじゃなかったんだねえ⋯⋯」
いまこの瞬間、佐助の目の表情が見られないことを、心底惜しいと小十郎は思う。思いながら、体側に投げ出されている佐助の左手に、そっと自身の右手を重ねた。
うまく言葉にして伝えられない不器用を、どうか呆れないでいて欲しい。
「右目の旦那」
――わかってるから。
そう告げるように、小十郎の手のひらの下で佐助の左手が反転し、ぎゅっと握ってくる。
「⋯⋯」
心の裏側がくすぐったくなるようなこんな振る舞いも、今だけは自分に許そう。
小十郎はゆるく右手に力を込めながら、しずかに目を伏せた。
了 2010.08.13発行『めんないちどり』より再録/2018.12.20 微修正/2020.10.10 誤字修正