お館様こと武田信玄に遣いを頼まれて、真田忍隊隊長・猿飛佐助は、つい先ほどまで越後の軍神・上杉謙信を訪ねていた。
第六天魔王・織田信長との決戦を前に、信玄と謙信は、それぞれ、織田軍の明智光秀・濃姫の奇襲を受けて負傷、床に伏していたのだが、その後の療養順調に信玄の傷は癒えつつあり、先日床払いをしたところ。とはいえ、まだ暴れられるまでには快癒しておらず、動き回れないのが退屈なのか、我が好敵手の傷の具合はいかがであろう、どれ、わしの近況を知らせがてら様子見して来てくれぬか、などと暢気なことを言い出して、書状を届けるよう佐助が仰せつかったのだ。
その役目をつつがなく終えた佐助は、任務完了の旨と謙信の快復具合についての報告を忍鳥と配下の忍とに託し、せっかく越後まで出向いたのだからと、自身は別行動で、更に周辺諸国の情勢を見聞するつもりでいた。
――やっぱ足伸ばすんなら、奥州、かな。
越後からであればそう遠くもないし、何より、佐助の主である真田幸村が、奥州筆頭・伊達政宗のその後の様子を気にしている。
政宗は、信長との最終決戦を前に銃創を負っており、そんな身体で無茶をしたため、決戦後、逗留していた甲斐を離れる際には、まだ決して万全の健康状態ではなかったのだ。
――政宗殿はいかがしておられようか。
傷が癒えたら、なにを置いても自分との勝負を望んで行動を起こすだろう政宗を疑うわけではないが、居ても立ってもいられない、そんな落ち着かない風情の幸村を間近に見ていたせいで、佐助自身にとっても独眼竜の現状は関心事であった。
それに――。
片倉小十郎。
あの旦那の顔を見て帰るのも悪くない。
いまは手甲に隠れて見えない己の指先の色を脳裏に描き、佐助は、一度だけ肌を合わせた男の面影を想った。
佐助の指先は青黒く変色している。それは、毒に対する耐性をつけるため、幼い頃より少量の毒を身体に入れ続けてきたことに因る。
その、気味が悪い筈の見目を『好(よ)い』と肯定した、変わった御仁。
小十郎が甲斐を離れる際、次に彼と会うとすれば、それはどこかの戦場(いくさば)で、そして敵(かたき)としてであろうと佐助は踏んでいたのだが、約定――信玄と政宗の怪我が治り、それぞれが陣頭指揮を執れるようになるまで戦端を開かないという――が交わされたことにより、両軍間の平穏はいまだ保たれている。
もっとも、敵であることには違いない。現状において、いきなり命の遣り取りをする破目に陥らないというだけで、互いの立場までが変わったわけではないのだから。
それでも。
佐助は自分の胸の裡にある衝動を確かめて、ひとつ小さく頷くと、奥州へと続く街道を目指し進路をとった。
奥州・米沢城――。
ひとり書斎に篭り、書状をしたためていた政宗は、顔を上げることもせぬまま、
「おい」
誰もいない筈の背後に向け、不意に低い声を発した。
「そんなところに潜んでないで、姿を見せたらどうだ――武田の忍」
その言葉尻が消えるか消えぬかのうちに、天井裏から、音もなく佐助が降(ふ)って立つ。
「バレてたの」
「見くびって貰っちゃ困るぜ」
文机を背に、佐助へと向き直った政宗が睥睨する。
「なんの用だ? 武田のおっさんの正式な使者って訳じゃあなさそうだが」
正規の任務であるならば、この男のことだ、草の身分であろうと、表門から姿を現すくらいは臆せず平然とやってのけるだろう。
「まあね。個人的な用向きってヤツで」
佐助の返答は政宗の予想通り。
「真田の旦那がね、あんたの様子、見てきて欲しそうにしてたから」
怪我の具合はどうなの、と改めて問う佐助に、政宗は、
「Don,t worry, 見ての通り、ピンピンしてるぜ?」
親指を返して自身の胸元を指し示し、
「再戦ならいつでも受けて立てる」
真田幸村にもそう伝えろ、と言い放った。
「だが、てめえンとこのおっさんの方はまだ全快じゃねえらしいな?」
佐助が開戦の意を伝える名代でない以上、つまりはそういうことだ。
「年寄りだけに快復も遅いとみえる」
ニヤリと不遜に笑う政宗を咎めることなく、佐助もまた、
「ウチの大将も化け物じゃあないんで」
へらりと掴みどころのない笑顔で応じてみせる。その後で、ふと表情を改めると、
「ところで右目の旦那は?」
きょろりと室内を見回して、
「一緒に居ないなんて珍しいんじゃない?」
今この部屋に居らず、また、いつまで経っても現れる気配のない男のことを尋ねた。
「Ha! 四六時中くっついてるみてえな言い方はやめてくれ」
お互いprivateはあるのだと、政宗はむず痒そうに肩を竦める。
「あいつはもう今日のnormaを果たしたからな、いま城(ここ)には居ねえよ。⋯⋯なんだ、てめえ小十郎に用でもあんのか」
「そういうわけじゃないけど⋯⋯」
居ないと気になるじゃない? という佐助の返答を惚(とぼ)けと気付いていたのかどうか、しかし勿体ぶることもなく、
「いま時分なら、たぶん――」
政宗は、佐助にとって意外に思える場所を口にした。
『いま時分なら、たぶん畑にいる筈だ』
そう佐助に告げた政宗だったが、その畑がどこにあるのかまでは教えてくれなかった。
『それくらいはてめえで探しな』
と、いうことらしい。
政宗の言葉を受けて、佐助はさっそく城下へ身を移し、見晴らしの良さそうな場所を選ぶと、大樹の枝に飛び移り、瞬く間にその天辺まで駆けのぼった。探し物を見つけるには、高所から見渡すのが手っ取り早い。
寝かせた手を眉上で庇に宛がい、ぐるりと視線を動かして見れば、
「うわぁ、マジだわ⋯⋯」
遠目の利く忍の視界の中、畝と畝の間にしゃがみ込み、手慣れた様子で作物を間引いている小十郎の姿が確かに在った。
呟いた次の瞬間には身を翻し、木々の枝から枝へと駆け飛んで、佐助の軽捷な体躯はあっと言う間に小十郎のいる農地に到着している。
「右目の旦那!」
声を掛けざま、繰り出された鍬の刃を喉元へ突き付けられて、佐助は仰け反った体勢で固まった。
「精が出るねぇ⋯⋯」
無理に顎を反らしたまま、目の前の、野良着姿の小十郎にかろうじて手を振って見せれば、
「⋯⋯てめえ」
剣呑に睨み付けられる。
頭部に手ぬぐいを巻き、首からも手ぬぐいを提げ、襷がけに脚絆という小十郎の姿は、完全に農夫である。
「武田の忍がこんなところで何してやがる」
凶器を構えたまま問い質す小十郎の、凄みの効いた声音に気圧されるような佐助ではないし、よもや来訪を歓迎されるだろうなどとも期待はしていなかったが、やはりこの反応には少々傷つく。
――一度は肌も許した仲なのに。
口にすれば、間違いなく鍬の刃の錆にされそうなことを思いつつ、
「独眼竜に訊いたら、畑に居るっていうから」
探して来てみただけだよ、と苦しい姿勢のまま答えると、ようやく鍬の柄が立てられる。やっと顎を引くことができ、佐助が姿勢を楽にしたところで、小十郎のするどい舌打ちが聞こえた。
佐助が城内に勝手に侵入したのだと気付いたためらしい。
他国の偵察員を城主のもとにまで辿り着かせるなど、警護の奴らは何してやがったんだ、と小十郎は部下たちの不甲斐なさを嘆いている。見れば眉間の皺がいっそう深い。
佐助はそれを斜(はす)に眺め遣り、片眉を上げて肩を竦める。
ややあって、過ぎたことに拘泥していても仕方ないと思ったのか、小十郎は諦めの滲んだ深い溜息をひとつつき、
「で、改めて訊くが、何の用だ」
と、佐助に視線を寄越した。
「ウチの大将にお遣い頼まれてさ、越後まで来たんだよ。だから、ついでに寄り道して旦那の顔、拝んで帰ろうかと」
「ハッ! どうせ奥州の情勢でも探ろうって魂胆(はら)だろうが。誤魔化してえならもう少しマシな嘘を考えるんだな」
「違うって! 誤魔化してなんかないっての!」
横暴! 決め付け反対! と喚く佐助を一顧だにせず、背を向けた小十郎は農作業の続きに戻ってしまった。
「ひどいよ、旦那ぁ⋯⋯」
諜報の意思があったことは認めるが、小十郎の顔を見て帰ろうと思ったのもまた事実なのだ。それを頭から嘘と断ぜられてしまうのは業腹だった。
しかし、そう訴えたところで、小十郎には悪い冗談としか受け取られそうにない。
「信じちゃ貰えない、か」
まあそれでもいいよ、と侘しく笑い、
「ところでさ」
気を取り直した佐助は、改めてあたりの様子をしげしげと眺めた。
「この畑、一から右目の旦那が作ったの?」
そう問えば、引き抜いた雑草を竹笊へ積み上げていた手を止めて、小十郎が佐助を振り返る。
「そうだが?」
文句でもあるのか、と言わんばかりの仏頂面に、違うよ、と首を振って、
「すごいね」
心底感嘆し、佐助は何度も頷く。すみずみにまで手が行き届いていて、片手間に作っている畑でないことは、誰の目にも明らかだ。
「でもさ、ここ、戦のときはどうしてるわけ?」
ひとたび戦となれば、軍師である小十郎に、畑を構う時間などなくなる筈だ。放置された田畑は、容易に雑草がはびこり荒れてしまう。
「ああ、それなら⋯⋯」
近隣の百姓連中に声を掛け、自分たちの田畑の世話ついでに面倒をみて貰っている、と小十郎は答えた。ようやく佐助と向き合う気になったのか、笊を避けて立ち上がり、
「もっとも俺のは道楽の延長みたいなもんだからな」
慈しみを込め、己(おの)が畑に目を向ける。
もとはと云えば、幼い頃の政宗――元服前のそのころは梵天丸といった――に偏食のきらいがあり、それを憂えた小十郎が思い立ち、
『この小十郎が梵天丸様のためだけに土を耕し育て申し上げた野菜ですぞ』
と、情に訴え食して貰おうという目論見から始めた野菜作りだった。そういう次第であるから、当初は、姿かたちはもとより、味も何も普通の野菜と変わらず、とりたてて美味に育ったわけではない。しかし、やがて物言わぬ植物との対話の面白さに目覚め、作柄を追求しているうちにすっかり深みにはまった小十郎は、今では玄人跣(はだし)の域すら超えて、野菜作りの名人とまで呼ばれるようになっている。
ちなみに、現在の政宗には好き嫌いはあるが、出されて食べられない食材は特にない。小十郎の献身と努力の賜物だ。
「だから、あいつらの、生活の糧である田畑を差し置いて、ここを優先するような真似はするなと言ってあるんだが――」
そう言いさした小十郎は、憂いの眼差しになっている。
「手抜きされたことなんかないんでしょ」
実際に作業の最中を目にしてはいない小十郎だが、丁寧に世話されていることは、畑の状態と作物の出来を見れば疑う余地もない。戦となれば男手をとられ、畑を守るのは女子供と老人の役目になるというのに。
「ったく、どんなに念押ししても聞きゃあしねえ」
「愛されてるねえ」
「どうだか」
奥州筆頭の側近という地位が怖いだけかも知れんぞ、と口にした言葉とは裏腹に、背けた男の横顔は仄赤い。
「せめてこれ以上は耕地を拡げねえように、な」
畑を世話するようになった経緯(いきさつ)が、政宗のためとはいえ、個人的な思惑によるものであるから、小十郎としては、己の立場を笠に着たと感じさせるような振る舞いは極力避けているつもりであるし、また、自分ひとりの手に余る規模にしてしまうことも本意ではなかった。もっとも、規模の大小に関わらず、戦がなくならない以上、ひとの手を借りないわけにはいかないのだが。
「なんか手伝おうか」
佐助の申し出に首を振り、
「いや、あとは水撒きだけだし、それに――」
小十郎がそこまで言ったところで、ふたり、申し合わせたように西の空へと目を向け、
「雨の匂いがするね」
「ひと雨来そうだからな」
ほぼ同時にそう口にしていた。
どうやら水を遣る必要はなさそうだ。
「そういや、そろそろ入梅(ついり)だねえ」
「ああ」
田の稲や畑の作物たちにとっては慈雨の季節の到来だ。ひとはただ、根腐れを起こすような長梅雨にならないことを祈るだけ。
小十郎は首に掛けていた手ぬぐいの端で額の汗を拭い、ふうとひとつ息をつくと、間引いた葉や除いた雑草を入れた笊をふたつ抱え上げた。
畑の西側にある、農具をしまってあるのだろう小屋に向かって歩き出した男の背へ、
「片付け、手伝うよ」
そう声を掛け、畝の間に放置されていた鍬を拾い上げようと屈み込んで、
「旦那、これ何! なんでこんな重いわけ!?」
佐助が頓狂な悲鳴を上げた。
背後の忍を振り返り、
「ん? ああ、それか。耕すついでに足腰が鍛えられて一石二鳥だぞ」
佐助が手にしているのが鍬だと知って、答える小十郎は事も無げだ。
「特別に誂えたんだ。柄の芯を刳(く)り貫(ぬ)いて、かわりに鉛を流し込んである」
ただ畑を耕すだけじゃ芸がないからな、との説明によれば、どうやらこの農具、刃ばかりか柄の部分までが凶器であったらしい。普段は、暴走寸前の主を諌める役割を担っているために忘れられがちだが、こう見えて小十郎も血の気が多く好戦的な性質(たち)だ。そんな彼にとっては、農作業の行為でさえも、武人としての鍛錬の延長線上にあるということか。
――まったく、いちいち面白い御仁だこと。
胸の裡に呟いて、佐助は細工された鍬を肩に担ぎ、小十郎を追いかけ肩を並べた。
「ところでさ、あれから身体はなんともない?」
松永久秀が仕掛けた香炉の毒の影響をさし、奥州へ帰国した後、小十郎の身にその後遺症などなかったかと訊けば、
「てめえは優秀な忍なんだろう?」
なぜか逆に問い返される。
――俺様、優秀な忍だからね。
それは佐助の口癖で。
「そのてめえが作った解毒薬(くすり)の効能を疑うのか」
言われて佐助は肩を竦める。
「平気だったならいいんだよ」
「そういうてめえはどうなんだ」
安土城での大戦(おおいくさ)の後、怪我で身動きのとれない信玄の手足となり、佐助は事後処理に奔走していたのだろうと推察している小十郎だが、その憶測、あながち間違ってもいない。
「まあウチの大将、薄給なのに忍遣いが荒いのは確かだけど」
――それはいつものことだし。
「怪我するようなヘマはしてないよ」
「ほう」
「第一、あのときだって大した怪我してなかったでしょ、俺様」
あのとき、と、佐助がそう言ったのは、第六天魔王との決戦のさなかのことだ。
「あのときは」
暗くてよく見えてなかったからな、と小十郎は甲斐を発つ前夜のことを言い、
「嘘はねえな?」
そう念を押す。
「なに、ずいぶん疑り深いね。俺様優秀な忍よ?」
今度は、佐助がそれを盾に取る。しかし、
「だからこそだろうが」
却って小十郎の猜疑心を煽ってしまったようだ。
肉を切らせて骨を断つ、を地でいく忍の戦い方を、小十郎は案じたらしかった。
「あらま。俺様のこと心配してくれちゃってるんだ? 嬉しいねえ」
「ぬかせ」
短く吐き捨て鼻で笑う。
「そんなに気になるなら自分の目で確かめてみる?」
おどけた佐助の言葉に、ふむとひとつ頷いたかと思うと、
「そうさせて貰うか」
小十郎は真顔で呟いた。
「!?」
ぎょっとなって足をとめ、佐助はまじまじと小十郎の後姿を凝視めてしまう。下世話な冗談のつもりだった戯言(ざれごと)に、よもやこの男が乗ってくるとは思わなかった。
予想外の展開に佐助が目を白黒させている隙に、小十郎の背中は小屋の中へと消えてしまっている。
我に返って後を追いながら、思わずごちる。
「右目の旦那って、もしかして意外と好色?」
佐助が想像していた通り、小屋の中には農具が収納された土間があった。それだけではなく、その場で一服出来るくらいの広さの板の間もある。佐助が土間の壁板に鍬を立てかけるのを待って、その板の間から、小十郎が手招いた。
彼は本気で傷を検分する気らしく、佐助と膝を突き合わせる格好で座し、手を伸ばして来る。
が、その手は中途半端な距離をあけたまま宙で止まり、
「てめえで脱げ」
てめえの装束は構造がよくわからん、と素気無く投げ出されてしまった。
「なにそれ」
ひどいなあ、と言葉で詰(なじ)り、声で笑いながら、
「はい、これでいい?」
頬当てや手甲も外し、さっくりと上半身を露にすれば、小十郎の、色情(いろ)など欠片も感じさせない真剣な眼差しが、古傷に覆われた佐助の膚の上をじっくりと撫でていく。
ときおり指先で触れてくるのは、傷の新旧を確かめるためらしい。
佐助はされるがまま、これで小十郎の気が済むならばと大人しく座っている。
身軽が身上の佐助の躯には、余分な肉がまったくついていない。目の前にある、限界まで無駄を削ぎ落とされたその肢体は、小十郎に一振りの刀の佇まいを連想させた。
触れるだけで斬られそうな――。
「確かに新しい傷は見当たらねえな」
ひととおり確認を終えた小十郎は、しかし何を思ったか、佐助の手を掬いとる。
「だから言ったでしょ、ヘマなんかしてないって」
青黒く変色した佐助の指先は、武田屋敷で過ごしたあの日に小十郎の気を引いたときのまま。ごく自然に会話をかわしながら、小十郎はその指をするりと撫でた。どうにも構いたくなるのはなぜなのか。
「忍の言うことは信用ならん」
しゃべる言葉とは別に、小十郎の意識は佐助の指先に囚われている。
「偏見ー!」
喚く佐助もまた、己の指に固執する小十郎の様子から目が離せない。
「ね、そろそろ上(うえ)着てもいいかな」
小十郎にその意図はない筈だった。だが、検分のためとはいえ、あちらこちらと無遠慮になぞられ、いままた過日のように指先に執着されて、否が応にもあの夜の記憶が呼び覚まされる。
そわそわと、らしくなく定まらない目線をくうに泳がせる佐助の態度を見、小十郎が首を傾げ、ややあって、
「ああ」
そういうことか、と状況を察したようで、けれど揶揄いも茶化しもしなかった。
「するか?」
「へっ?」
「俺は別に構わねえ」
思いもよらない明け透けな提案に一瞬呆け、
「――旦那ってさ、ほんっとオトコマエだよねえ⋯⋯」
つぎに佐助が口にできたのは、そんな間抜けた感想だけだった。
広くはない小屋の中に、ふたり分の荒い息の音が満ちていた。
「旦那も意外と傷持ちだよね」
佐助が言うように、ひらいた袷から覗く小十郎の肌にも大小さまざま、無数の刀傷が存在している。
「主が突っ走ってっちゃうと、こっちはどうしたって無理も無茶もするハメになるもんねえ」
しゃべり続ける佐助に対し、小十郎からの返事はない。佐助を身の裡ふかくに受け入れた彼は、ときおり艶声を混じらせながら、浅くはやい呼吸を繰り返しているだけだ。
「右目の旦那」
顔の上半分を覆い隠す小十郎の腕を取り、佐助がその表情を覗き込めば、水の膜が張った眼が見返して来る。視線を絡ませたまま、捉えた小十郎の左手を引き寄せ、その指の節に口付けると、佐助を飲み込んだ熱いとば口がきゅうと締まった。
「っ、あ⋯⋯」
意図しない自分の身体の反応に戸惑うのか、小十郎の眼が佐助から逸らされ、目蓋が下りる。
もう一度、と、指に唇を寄せたところで、鼻孔をかすめた、この状況にそぐわぬ物の匂いに、佐助の動きが止まった。
互いの汗臭とも体臭とも違う、それ。
よくよく見れば、小十郎の短く整えられた爪と指との、その僅かもない隙間に、畑のそれだろう土くれが詰まっていた。
――ああ、これか。
舌を使い、嬲るようにして違和感の正体をこそぎ取れば、その動きに、また小十郎の下肢がひくりと跳ねた。
「土の匂いがするね」
戦場では血の匂いにまみれている男が、平時にあっては大地の匂いをさせている。この手が人の命を奪い、それと同じ手で人を生かし養うための作物を育てる。
奪い、与える。
ひどい矛盾のようで、だが、それこそが人という生き物の本質なのかもしれない。
「動くよ」
みじかく告げれば、促すまでもなく、小十郎の腕が佐助の背にまわされた。力強く存在確かなその腕は、容赦なく佐助を引き寄せ包み込んでしまう。
抱いているのに抱かれているような、錯覚――。
伊達軍が武田屋敷で過ごした最後の夜、閨に現れた佐助を拒まなかった男の腕は、いまもやはり躊躇いなく佐助を受け止め抱き込んで、微塵も揺らぎはしないのだ。
あのときは、どうせ互いの立場が変わることはないのだからと、諦観の念にとらわれて尋ねもしなかったけれど。
いまならば。
次などないと思っていたのに、二度目が成った、今このときならば――。
なぜ受け入れてくれるのかと、訊いてみても良いだろうか。
溶けそうな程ひとつに混ざり合っていた身を、惜しみながら元のふたつに分(わか)てば、佐助に支えられることでかろうじて起きていられた小十郎の身体が、力なくその場に崩折れる。
その傍らで身繕いをはじめた佐助が、ふとその手を休めて顔を上げた。しばし何かを探る視線で戸口を注視する。
「右目の旦那、聞こえてるかい?」
降り出したみたいだよ、と、うつ伏せた小十郎の肩越しに声を掛ければ、焦点を結んでいなかった男の双眸が、ゆっくりと光を取り戻していくさまが窺えた。
「雨、か」
掠れて艶を増した声が呟く。
じっと外の様子に耳をそばだてていた佐助が、雨音が変わるのを聞き取って、
「しばらくやみそうにないね⋯⋯」
小さくごちた。
雨脚が強まると同時に急速に気温が下がりはじめたのが、鎖帷子越しの肩に感じられる。
「やむまでここに居てもいい?」
「⋯⋯好きにしろ」
むくりと身を起こした小十郎は、脱がされた着物を肩から羽織っただけのしどけない姿で、ゆっくりと壁に背を預けていく。額に垂れ落ちた前髪を、煩わしげに掻き上げ撫でつける所作に滲み出た色が香る。
「右目の旦那」
「ん?」
呼ばれて小十郎が顔を向けると、視線をそらした佐助の横顔に行きついた。
「旦那はさ、なんで俺のこと――忍の俺のこと、受け入れてくれてんの?」
最初に意思をもって手を伸ばしたのは佐助の方だ。
『あんたを教えてよ』
あの夜、武田屋敷の一室で、小十郎をそう口説いた。
何の抵抗もなく迎えられ、はじめて疑問が沸いたのだ。この男は何を思って自分を受け入れたのだろうかと。しかも佐助は忍である。常ならば、蔑みの対象である筈の。
「さあ?」
考えたこともなかったな、と返ってきた小十郎の言葉は、しらばくれているのか本心なのか、耳にしただけでは敏い佐助にも判別がつけられない。
「理由なんざ知らねえが、ただ――そうだな、てめえ相手の情交は悪くねえと思ってる」
気持ちの良いことは嫌いじゃないぜ、と嘯(うそぶ)く小十郎の手が伸びて、佐助の顎下をするりと撫ぜた。
「⋯⋯」
ああ、これは誤魔化されたな、と佐助は直感する。この男の心根の在処はもっと別のところ。
そこを知り、暴いてしまいたいと願うのに。
「それとも、何だ、突っ撥ねた方が良かったのか?」
逆に問い返されて、
「⋯⋯どうだろね?」
わかんなくなっちゃった、と佐助は情けなさげに眉尻を下げ、苦く笑ってみせた。
それを横目に小十郎が言う。
「俺に言わせりゃ、てめえの方こそ、ずいぶんな物好きなんだがな」
「?」
「考えてもみろ。見目麗しい色小姓ってんならいざ知らず⋯⋯こんな薹(とう)の立った男のどこが良い?」
その気になる神経が知れない、と。小十郎はそう言うが、むしろそんなことは佐助の方が教えて欲しいくらいだった。
小十郎に惹かれる理由ならば、既にさんざん考えたのだ。しかし、いっかな結論は見えて来ず。
「要するに、お互い様、ってところかね」
無難にまとめ、佐助は不毛な会話を切り上げた。
落ちる沈黙は雨音に満ち、外界から切り離され閉じ込められているような心許なさが募る。
佐助は、まだ着込んでいなかった装束をすべて整え終えてから、改めて腰を落ち着けた。
それを待っていたように、
「おい、忍」
小十郎が佐助を呼び、
「俺は少し寝る」
律儀に宣言すると、雨がやんだら勝手に出て行け、と言い置いて、自身の右腕を枕にごろりとその場で横になった。
「おやすみ」
掛けた声に返る言葉はもうない。
佐助は片膝を立てて手を置き顎を預けると、息を潜め、戸外の気配を見透かすように目を眇めた。
やがて、小十郎の寝息に誘われたのか、佐助の目蓋がだんだんと重くなってくる。しばらくは眠気に挑み、二度ほど欠伸を噛み殺したところで、しかし佐助は早々に白旗を揚げた。
どうせ雨がやむまでのこと、無益に抗う必要などないではないか――。
静もった気配を揺らさぬよう、音もなく小十郎のそばまで這い寄ると、その傍らで佐助もひそやかに身を丸めた。
仮寝の中に本音を隠した獣が二匹。
やがて上がる雨を待ちながら、静謐な眠りに就いている。
了 2010.06.20発行『真秘する獣、二尾』より再録:2020.10.17