――結局、自分で行っちゃうわけね。
先刻、呆れ気味にそう呟いて見送った筈の男の背を、いま猿飛佐助は、騎上の主・真田幸村と共に追っている。
設楽原に於いて、明智光秀率いる鉄砲隊の襲撃に晒され手傷を負った奥州筆頭・伊達政宗が、自軍の兵たちと共に甲斐の武田屋敷へ身を寄せた、その夜半のこと。
伊達軍兵士三名を質に、戦国の梟雄こと松永久秀が、彼らの命と、武田の家宝『楯無鎧(たてなしのよろい)』・政宗の刀『六(りゅう)の爪』との交換を要求してきた。
重傷の身をおして自ら部下を取り戻しに行くと言い放ち、馬を用意させようとする政宗の無謀を、忠臣・片倉小十郎は言葉でもって諌めんとしたのだが、素直に聞き入れるような独眼竜ではなく。
ついには、実力行使とばかり、小十郎が決然と己の主に牙を剥いた。
臣下でありながら、仮借することなく政宗の死角へ死角へと回り込み、猛然と弱点を突くその躊躇いのなさに、佐助は思わず感嘆したものだ。
――へぇ、やぁるねえ。
比類ない忠臣との噂は聞き知っていたが、これほどとは。事の成った暁に詰腹を斬る羽目になろうとも、主のため、いまこの瞬間の最善をあやまたず選ぶことが出来る、そういう覚悟を持っているらしい。
結局、政宗を容赦のない刀背(みね)打ちで昏倒させた小十郎は、主の命に従うという体裁を繕い、六爪のみを借り受けて、ひとり馬を駆って発って行ったのだった。
いま、佐助と幸村は、その彼の後を追っている。
もしもあの場面で政宗が起き出して来ていなければ、そのときは、十中八、九、己の得物のみを頼み、小十郎は単身松永の待つ大仏殿へ乗り込んでいたことだろう。
あの男なら、やる。
冷静であるが、冷淡ではない。たぶん、律すれば冷酷にふるまうことも出来るのだろう竜の右目は、けれど佐助が勝手に想像していたのよりも、ずっと情の篤い男であるようだった。
「佐助!」
ふいに幸村に名を呼ばれ、佐助が回想から現実に意識を戻してみれば、ふたりの視界の先に、羅生門がその姿を現しはじめていた。
通過して来た朱雀殿境内で『幻惑香炉』の香を吸わされ、更に、辿り着いた先の大仏殿で『悶死の香』を嗅がされ、あやうく松永の策の餌食となりかけた小十郎の窮地を、佐助は毒消しの炸裂弾でもって助けた。
爆発に巻き込まれて死んだと思われていた三人の人質たちと共に武田屋敷へと帰還した佐助は、その後、鎧の間の政宗のもとへ向かった小十郎や、信玄に事の次第を報告しに行く幸村とわかれ、急ぎ、忍小屋に駆け込んだ。
解毒剤を用意するためである。
大仏殿で小十郎のために使った毒消しの炸裂弾には、持続性がない。また、万能を求められるがゆえに種別の毒に特化しておらず、その場しのぎ程度の効能しかもっていないのだ。
小十郎が吸ったふたつの香を、佐助も敢えてごく微量だけ体内に取り込んでいる。佐助は、おのが身の記憶を頼りに、その毒に適した薬を調合しようとしていた。
――急がないと。
いまは落ち着いた状態にある小十郎だが、じきに炸裂弾の効き目が薄れて来、そうなれば、身体の自由が利かなくなってしまう。
数種類の薬草を選び、火に掛けたり薬研(やげん)で磨り潰したりしたものを捏ね、手際よく丸めていく。
四半刻と掛からず目的のものを作り終え、いくつかを薬包紙にくるむと、それを手に佐助は忍小屋を飛び出した。その足で厨へ行き、白湯の用意を整えて、さて小十郎はどこにいるだろうかと、まずは鎧の間へ向かった佐助の視界に、渡り廊下の途中、柱に手をついてうずくまる男の、丸まった背中が飛び込んで来た。
しまった。遅かったか。
「右目の旦那!」
佐助は叫んで素早く駆け寄り、息を荒げ、苦痛に眉根を寄せる男の体を抱き起こす。
「詳しいことは後で説明するから、とにかくこれ服んで!」
有無をいわせず、薬包紙から取り出した丸薬を二粒、小十郎の口内に押し込み、白湯の入った湯呑を唇へ押しあてた。
小十郎は、湯呑を持つ佐助の手に、震える己の手を添えるようにして白湯を口に含むと、ひどくもどかしい様子で嚥下した。
飲み下したことを確認し、念のためもう一口飲ませてから手を離す。
佐助は小十郎に肩を貸し、胴を抱くようにして立ち上がらせた。
「あんたの部屋に連れてくよ」
薬の効き目があらわれるまでに、すくなくとも四半刻弱はかかる。このていでは、当然、政宗の傍に居続けることは叶うまい。
「あと頼む」
庭に向けて短く声を掛ければ、いずこからともなく姿を現した配下の忍が、からの薬包紙と湯呑とを盆ごと持ち去って消えた。
小十郎にと供され、しかし今までは使われていなかった部屋に床の用意をし、陣羽織を脱ぐのを手伝って、佐助は、脂汗を流して苦しがる男をひとまずその中へ押し込んだ。そうしておいていったん部屋を出、水を入れた桶、手ぬぐい、白湯など、看護に必要な一切を整えてから再びそこへ戻った。
床に寝かされた小十郎は、呼吸が荒れ乱れているものの、意識の方はしっかりしているようで、
「右目の旦那」
声を掛ければ、すぐに目蓋を上げて応えて見せる。
「さっき飲んで貰った丸薬だけど」
大仏殿で使った毒消しの炸裂弾の効能には持続性がないことと、ふたつの香の毒に適した薬を取り急ぎ作ったことをざっと説明し、
「このての解毒薬は効き始めたら高熱が出る筈だ。それで汗と一緒に毒もあらかた抜けるから」
いっとき辛いだろうけど、我慢して。
佐助の言葉に頷き、小十郎は、
「このこと、政宗様には」
黙っていてくれ、とまずはそれを頼んで来た。
「わかってる。言わないよ」
主にいらぬ心配を掛けたくない、その気持ちは佐助にもわかる。自分が小十郎の立場でも、同じことを真っ先に考えるに違いない。
「竜の旦那だけじゃない、誰にも言わないから安心して。その代わり、俺様が看ることになるけど、文句はナシだぜ?」
あんた忍が苦手だって噂だけどさ、と必要以上には恩着せがましくならぬよう、敢えて茶化して口にする。
そんな佐助の意図を解したのだろう、よろしく頼む、と小十郎には苦笑いで応じられた。
その表情に記憶を刺激され、佐助は小十郎の笑顔を思い出す。
当然のことではあるが、政宗が武田屋敷に収容されてからずっと、小十郎は険しい表情を崩していなかった。そのせいで厳つい印象ばかりが強く、故に、一度は死んだと諦めた人質たちの命が助かり、武田の家宝も政宗の刀も失うことなく持ち帰ることが出来るとわかった後の、隠しきれない喜びが滲んだ声が佐助の耳に新鮮であったのだ。更には、朱雀大路を辿りながら部下たちとの歓談の合間に見せた、あの全開の笑顔。
――あんなかおで笑うのか。
ちらりと横目でそれを伺った佐助は、ちょっとした衝撃を覚えたものだ。
ふいに、ごそりと衣擦れの音が聞こえ、見れば、布団の中の小十郎が腹を抱くように横臥して、胎児の姿勢をとろうとしている。
佐助の座る側に顔を向けているのは無意識だろうか。
「大丈夫かい?」
「⋯⋯」
声を掛けてみたが、もう明確に返る言葉はなく、小十郎はきつく目蓋を閉ざしている。薬が効き始めているのなら、熱も上がってきている筈だ。辛いだろう。
佐助は小十郎の顔を覗き込んだ。苦しげにしかめられた眉根をほどいてやりたいが、時が過ぎるのを待つほかなく、思うに任せない。
「右目の旦那?」
呼びかけても完全に反応がなくなった。
小十郎の意識は混濁しはじめている。
いま佐助に出来ることといえば、秀でた額に噴き出す脂汗を、水に濡らした手ぬぐいで押さえ、ときおり水分を摂らせてやるくらいだ。
意識のない相手だ、これも看護の一環と割り切って、水は口移しで飲ませた。首裏に手を添えて頭を抱え上げ、唇を覆うように口を当てる。噎せさせぬため、性急にならないよう気を遣いながら少しずつ流し込み、首を支えるのとは別の手で触れた喉がゆっくりと上下するのを確かめて、ようやく口を離す。
時間をあけて、佐助はそれを繰り返した。
何度目かのその行為の後。
飲み込み切れずに零れ流れた水の跡を指先で拭うと、小十郎の唇が、満ち足りたように熱い息を吐き出した。
その熱さが指をかすめ、濡れ光る唇を目にした途端、ぞわりと背筋を駆け上る何かの予兆を捉えて、咄嗟に佐助は顔を背けていた。
――いま、なんか⋯⋯。
不穏な何かを芽生えさせてしまいそうになった、ような、気がする。
いやいや、気のせい、気のせいだ。
手桶の水を替えて来なければと、不要な筈の言い訳を自分に向けて、佐助は慌てて小十郎の側を離れた。
外へ出て気を鎮めた佐助が部屋に戻ってみると、小十郎の目が開いていた。荒かった呼吸がずいぶん落ち着いており、紅潮して汗の滲んだ頬を除けば、熱の名残もほとんど見つけられない。
小十郎はつい今し方目覚めたばかりのようで、横になったまま、入り口に立つ佐助の方を振り向いた。
「気分はどう?」
佐助の問い掛けには答えず、男はぼんやりとした視線を寄越しているだけだ。常の鋭い眼光が嘘のような、頼りない様子に佐助のこころがまた騒ぐ。
佐助は目を逸らした。
布団の足側をまわり、手桶を置いて元の位置に座す。冷たいかも知れないよ、と断ってから、新しい水にひたした手ぬぐいを絞り、小十郎の額や首筋に浮いた汗を拭ってやった。
そのとき、小十郎が不思議そうなかおをして目をまたたかせた。目の端を、見慣れぬ色がかすめたように思ったのだ。
小十郎の意識が覚醒する。
ようやくしっかりと焦点を結んだ視野が捉えたのは、佐助の指先だった。手指の先端が、打ち身をひどくしたような青黒いそれに変色しているのだ。
「その爪⋯⋯」
熱に浮かされた後だったせいだろう、機微に敏い小十郎にしては珍しく、深慮する前に、気付けば思うままを口にしていた。
佐助はハッとして顔を上げ、
「ああ、ごめんよ。こんなんで触られちゃ気味が悪いよね」
爪を隠すように、指を手のうちに握り込んだ。
武田や真田に仕える者たちは、佐助はもとより忍隊の配下の、草の者ならではの奇異な部分などとうに見慣れて無反応だから、つい忘れがちになるのだが、初めて目にする者には不快に違いなかった。
だが、小十郎は首を振る。
「別に」
そんなふうに思ったわけじゃねえ、と。
「毒、か?」
「うん。そう」
この髪の色もね、と佐助は自身の頭に目線を遣り、
「忍には多いよ」
と言った。
忍には、毒に耐性をつけるため、まだ幼い時分から少量の毒を服み続ける者が多くいる。その毒が、こうして皮膚や髪の色に影響を及ぼすことがあるのだ。佐助も例外ではなかった。
「おかげさんで簡単に毒にやられることはないけど、代わりに薬は効きにくい」
代償は、外見の変化だけにとどまらない。
「難儀だな」
「ははっ、まあねえ」
小十郎の素直な感想に、佐助は苦笑いを返した。
「でも背に腹は替えられないってとこかな」
小十郎は伏した姿勢のまま、握り込まれっぱなしの佐助のこぶしを注視している。
「てめえは忍だろ」
「?」
「だったら、それはてめえの誇りなんじゃねえのか」
――誇り?
武士である自分にはよくわからんが、と小十郎の手が伸びて来て、佐助の腕を捕らえた。
「てめえはこの手で真田を守って来たんだろ」
幸村――当時はまだ幼名の弁丸を名乗っていた――に初めてこの指の変容を知られたとき、まだよく回らぬ舌で『ちゅうぎのあかしであるな!』と言われたことを思い出す。
「隠す必要がどこにある?」
あのとき佐助は、別に、仕える家だとか雇い主のためじゃない、自分の身を守るのに必要だったからそうしただけだよ、と抗ったが、幸村には照れ隠しの言い訳と取られた。
「うん。そうだね⋯⋯」
小十郎の言うとおりだ。もっとも、この男にそんなふうに言われるとは思っていなかったが。
「あんた変な人だね」
心外だ、というかおで見返して来る小十郎へ、
「お武家さんにそんなこと言われるなんてさ」
「信玄公も真田も武士じゃねえか」
「まあ、そうだけど。けど、うちの旦那たちは元からそういう土壌に育ってるわけじゃない?」
でも、この男はそうじゃない。草の者は草の者として認識し、使役する立場にある。そもそも佐助のことを『忍』と呼ぶくらいなのだ。佐助が驚くのも当然だろう。
それはともかく。
「そろそろ離してくんないかな」
振りほどくべきか迷い、佐助は心地悪げにもぞもぞと腕を動かす。
それに構わず、小十郎の親指の腹が、佐助のひとさし指の先をするりと撫ぜた。
神経の集まる指先は敏感だ。そんなふうに触れられて、佐助は思わずビクリと肩を跳ね上げてしまう。
「冷てぇんだな」
「旦那が熱いんだって」
さりげなく手を取り返そうと試みて失敗する。それどころか、逆にぐいと引き寄せられ、組んでいた足が崩れた。
小十郎の顔が近い、そう思ったときには、ぺろりとねぶられていた、指の先を。
「!?」
ぎょっとして息を飲み、硬直してしまう。
「ちょ、あんた、何す――」
佐助は言葉に窮し、
「毒があったらどうすんの!」
一拍ののちには叫んでいた。
忍の中には、自己の体液に毒を持つものもあるというのに、軽率にも程があるだろう。
しかし、小十郎はけろりとして悪びれない。
「てめえは違うんだろ?」
そうでなければ、このように手甲を外した状態でひとを看ることなどしない筈だ、そう言い切られ、
「それは⋯⋯、まあ、そうなんだけど、でも、でもさあ!」
佐助はたまらず座を蹴って立った。平静の彼ならば有り得ないことに、ドスドスと足音も荒く部屋を出る。
「まったく、あの旦那!」
何がしたいって言うのさ、と悪態をついて、佐助は廊下の先、柱に額を押し当て溜息をついた。目を閉じれば、握り締めた指先に濡れた舌の熱さが蘇り、ますます居た堪れなくなってしまう。
おそらく、これがその(・・)『引き金』だったのだ、と、のちにそう悟ることになるのだが、いまはただ、さざなみ立った胸のうちを宥めるのに手いっぱいの佐助であった。
土佐の長曾我部、安芸の毛利をも巻き込んだ、第六天魔王との最終決戦が収束した後も、数日の間、伊達軍は武田屋敷に逗留していた。もっとも、いつまでも武田の厄介になっている筈はなく、比較的軽傷の者たちから順に奥州への帰途につくことになり、その第一陣は既に甲斐を発っている。
信玄――明智光秀の奇襲により負傷――と政宗の怪我が治り、それぞれが陣頭指揮を執れるようになるまでは、互いに戦をしかけ合わないことを約定した上で、政宗を含む第二陣が出立し、残るは、引き上げの差配のため最後まで甲斐にとどまっていた小十郎が預かる、第三陣のみとなった。
その小十郎の出立を翌日に控えた夜半。
佐助は単身、小十郎が休んでいる部屋へ向かった。天井裏の羽目板をわずかにずらし、その真下、布団の中にいる小十郎の姿を見留めると、男の胴をまたぐ格好で音もなく着地する。
途端、喉元に得物が突きつけられた。
「!」
反射的にのけぞりながら、
「なぁんだ、起きてたの」
俺様のこと待っててくれたとか? ふざけてみせれば、フンとひと声、鼻先で一蹴される。
「ツレないねえ⋯⋯」
「鈍いな」
小十郎の目線をたどって見れば、彼が構えた黒竜は鞘を払われておらず――。
佐助は目を丸くし、ついで破顔した。
「嬉しいじゃない」
佐助は小十郎の身体をまたいだまま、頬宛と、両手の鉤爪のついた手甲を、ひとつずつ順に外していく。
その様子を、刀をおろし仰臥した姿勢で、小十郎は黙って見つめていた。逃げる気はもとより、抗う気もないらしい。
解毒の件が念頭にあり、佐助が助けたことに恩義を感じ、その借りを返そうとしているものか、はたまた他に理由があってのことなのか。
ただ、訊く、という選択肢が佐助にはなかった。どうであれ、次に相まみえるときには敵陣営だとの思いがある。
両脇に膝をつき、顔を近付けてもなお、小十郎の視線は揺らがなかった。上体を起こした男へと、ゆっくり手を伸ばせば、躊躇いのない左手に絡めとられる。
「あんたを教えてよ」
驚くほど甘えるような声が出た。
「その方法がこれか」
青黒い指先に、並びの良い白い歯列がかしりと当たる。
「こんな遣り様(よう)で何がわかる?」
「さあ?」
「知って、どうする」
「知ってから考えるよ」
小十郎の手は捉えた佐助の指先をもてあそび続け、今度は唇でもって触れてくる。
くすぐったさに佐助は首をすくめた。その双眸が笑みを湛える。
「この指、気に入ってくれたんだ?」
「ああ、悪くねえ」
佐助の、忍としての在り様が、もっとも色濃く表れている部位だと思えばこそ惹かれるのか。
囚われていない自由な方の手で、佐助は小十郎の夜衣を剥きにかかり、自分の指を間に挟んだまま、口付けた。
触れた身体はすこしずつ確かに熟れていくのに、漏れ聞こえる声はほとんどない。それが、ひどく小十郎らしい矜持に思える。それでも次第に呼吸が乱れ、吐息に熱が混じり始め、あからさまな浪(よ)がり声などなくても、それだけで佐助は昂ぶる自身を持て余しそうになっていた。
惑う、とはこういうことなのかと、ふいに返る正気の合間に考える。だが、その思考は刹那、一瞬ののちにはまた愉悦に浚われ曖昧に溶けてしまう。
閨事の秘技を極め、おのが欲望など自在に操れるほどに飼い馴らしている筈の忍の自分が、我をなくして溺れそうになっているなどと。
「弱ったな」
常の軽口に誤魔化せず、本音が零れ出た。
「このままじゃ、あんたに溺れちまう⋯⋯」
ましてやそれを、心地好く感じてしまっているとは。
「あんたのせいだよ、右目の旦那」
責任転換など、それこそ自分らしくないというのに。
言わずにはいられなかった。そうしなければ、冷静な己を亡くしてしまう。
荒くうわずる息の合間、小十郎が応える。
「構やしねえ」
俺のせいでもなんでも、好きにしていいぜ。
「覚悟はとっくに出来てんだ――」
じたばた足掻くつもりは端(はな)からないのだと、熱く乱れた吐息で殺し文句を囁いて、憎い男は更に佐助の腰を重くさせる。
もう限界だと思った。
佐助は脱ぎ捨てた忍装束の中から、手探りで合わせ貝をひとつ取り出す。
「⋯⋯?」
目線の動きでそれは何かと問われ、
「軟膏。ただの傷薬だよ。怪しいもんじゃないから安心して」
わずかばかり痛覚を麻痺させる効能もあるのだが、それは口にしなかった。
汗のにおいを立ちのぼらせる小十郎の首筋に舌を這わせ、なだらかな胸の先の紅いそれに歯を立て、更には臍をくじりながら、貝から掬い取ったものを絡めた指で隘路を拓いて行く。
「きつい?」
伏していた胸元から顔を上げて、小十郎の首が横に振られるのを見留め、佐助は後肛をなでる指をもう一本増やした。
「⋯⋯っ」
狭い器官をなおも押し拡げようとする指の動きに、小十郎の太腿が震えはじめる。
「もうすこし我慢して」
「ふ、ぅ⋯⋯」
ときおり、喉奥で殺し切れなかった声がくぐもった音となり、小十郎の鼻孔を抜けて佐助の耳を喜ばせる。
不安定な身体を支えるよすがにと、佐助の背に回された男の腕は太く、樫の幹を思わせる硬さをもっていた。その先で、指を握り込んでいるのは無意識なのか、それとも痕を残すまいという意地なのか。
三本目の指を収め、柔肉をぐずぐずと擦り上げる頃には、身を焼く悦にとらわれた小十郎が、佐助の肩口につよく額を押し当て縋っていた。
頃合とみて指を引き抜き、浮いていた小十郎の背を元のように布団へおしつけると、佐助は包み込む肉襞を求めて張り詰めたそれを小十郎の後孔にあてがい、正気に返るいとまを与えず、ずるりと押し込んだ。
途端、ぐ、と小十郎の喉が潰されたような音をたてた。
咄嗟に掴み締められた両肩が、骨を砕かれんばかりに軋み、佐助もまた苦鳴をあげる。
「忍! う、ごく、な⋯⋯っ」
まだ動いてくれるな、と呼吸(いき)を噛むような声で切に訴えられ、すぐにでも突き上げたくなる衝動を、奥歯を喰い絞めてじっとこらえる。慣らしたとはいえ、佐助を飲み込んだ隧道は充分に狭く、その締め上げられるようなきつさには痛みすら覚えた。
「旦那⋯⋯息、吐いて」
こういうとき、息を吸えと言ってもうまくはいかない。吐けば、潰れた肺が、しぜん、膨らもうとしてくれる筈だ。
それでも喘ぐような短い息しかつげないでいる様が労(いたわ)しく、すこしでも気を逸らさせようと、佐助は小十郎の下腹部へ手を差し入れる。幸い萎えてはいないそれを手のうちに収め、しとどに濡れそぼつ先端に指の腹を押し当てて、蜜口を割った。
「う、ぁ⋯⋯」
明らかにいろを孕んだ声が溢れ、喉をさらした小十郎が大きくのけぞる。締め付けるばかりだった肉筒も緩み、佐助を奥へ引き込もうとしているようだ。
肩を掴んでいた小十郎の手がするりと佐助の背を抱いて、
「もう、いい⋯⋯」
大丈夫だ、と薄紅く染まったまなじりが艶やかで、佐助は引導を渡されたような気になった。
たまらず、揺すり上げるように一度腰を使ってしまえば、もうその先を望まぬことなど出来なかった。
翌日、伊達軍最後の駐屯部隊は、予定どおり、夜が明け切る前に甲斐を発った。
佐助は国境(くにざかい)に先行し、一行が通りかかるのを、高い木の頂に直立して待っている。数刻前に肌を離したばかりの男のことを、想うともなく考えながら。
小十郎を抱いてみて、あの男の何を知り得たのかと問われれば、佐助に返すことの出来る明確な答えはない。
ただ、身を離した直後、小十郎が気をやっていたわずかな間に、節が白くなるほど強く握られていた彼のこぶしを何気なく解かせてみて、ひどく遣る瀬ない気持ちにはさせられた。
両の手のひらのそれぞれに、赤くくっきりと刻み込まれた細い三日月が四つずつ。
いずれは消える、そんな痕すら佐助の膚に寄越しはしなかったのだ、あの男は。
もっとも、佐助とて、すべて幸村に捧げている身。髪の先から爪先まで、身命あますところはない。だから、一片たりとも相手に差し出し与えられるものがないという点では、ふたり似たようなものだった。
そういえば。
『射干玉の闇に光ひとつ』
大仏殿で松永と対峙したとき、小十郎が口にした言葉を思い出す。
あれを聞いたのが、佐助が小十郎に自分と同じ臭いを嗅ぎ取った最初だった。
――このひと、闇を知ってる⋯⋯。
外から眺めてそれの存在を指摘するのではなく、その闇の中に自身を置いたことがある、そういう意味で。いや、もしかすると、いまなおその闇の中に在るのかもしれない。
光を恋う生き物が、闇の中に二匹。
見つけた光はそれぞれの主で。
だからか。だから、自分は、あの男にこうも興をそそられるのか。
理解できないままの感情はまだいくつもあるが、ひとつだけの正解などない、それが結論のような気がする。
どれもが真実で、どれもが虚偽だ、と。
「わかんない旦那だけど」
だからこそ、興味を覚えるのだ。性急に答えを求めてすべてを得られてしまっていたなら、とっくに意識の範疇外だったろう。
――考えても仕方ない、か。
迷いを断ち切るように、ひとつ頭を振って、佐助は顔を上げた。
目をすがめてみれば、遠目の効く忍の視界のきわに、竹に雀の馬印が見え始めていた。
次に会うときは敵(かたき)同士。
さて、なんと声を掛けて別れよう。
じき、夜が明ける。
未明と黎明の狭間に身を置いたまま、佐助は近づく男の気配を待っている。
了 2010.05.02発行『光恋うる獣、二尾』より再録:2020.10.11